2020年7月7日火曜日

2020年7月7日(使徒言行録24)

使徒言行録24
総督フェリクスの前で裁判を受けたパウロ。フェリクスはしばらくパウロを留め置き、ある程度の自由を与えます。「そしてパウロを監禁するように百人隊長に命じた。ただし、自由をある程度与え、仲間が彼の世話をするのを妨げないようにさせた。」
そして、フェリクスは自身のユダヤ人である妻ドルシラと共に来て、「パウロを呼び出し、キリスト・イエスへの信仰について話を聞いた」のでした。しかし、それでフェリクスが信仰に入る、ということにはならなかった。「パウロが正義や節制や来たるべき裁きについて話すと、フェリクスは恐ろしくなり、『今回はこれで帰ってよろしい。折を見て、また呼び出すことにする』と言った。」フェリクスはもともと「この道についてはかなり詳しく知って」いましたし、パウロという存在にさらに興味を抱き、話を聞きました。しかし、キリストにある信仰の道に実際に入ることはやめてしまった。なぜなら、パウロの話が自分の生き方への変革を要求するものだったからです。傍観者でいられなくなってしまったから、フェリクスはそこに入ることを拒みました。
そうなると、もうフェリクスには下心しか残っていません。「パウロから金をもらおうとする下心もあったので、度々呼び出しては話し合っていた。」さらに、「二年たって、フェリクスの後任者としてポルキウス・フェストゥスが赴任したが、フェリクスは、ユダヤ人に気に入られようとして、パウロを監禁したままにしておいた」のでした。パウロの命運は、フェリクスの勝手な都合で弄ばれてしまいました。もしかしたら、フェリクス自身が、興味は持ちながらその道に入ることをやめてしまったことへの罪悪感から、パウロにこのような仕打ちをしたのかも知れません。しかしそれよりも本質的なことは、フェリクスが自分の変革を嫌った、ということです。
ナチスの支配に抵抗したドイツの教会が告白したバルメン宣言の中に、このような言葉があります。
「イエス・キリストは、われわれのすべての罪の赦しについての神の慰めであるのと同様に、またそれと同じ厳粛さをもって、彼は、われわれの全盛活にたいする神の力ある要求でもある。彼によってわれわれは、この世の神なき束縛から脱して、彼の被造物に対する自由な感謝に満ちた奉仕へと赴く喜ばしい解放を与えられる。
われわれが主イエス・キリストのものではなく他の主のものであるような、われわれの生の領域があるとか、われわれがイエス・キリストによる義認と聖化を必要としないような領域があるとかいう過った教えを、われわれは退ける。」
主イエス・キリストは私たちを新しい生へと招く、神さまの呼びかけです。私たちも、キリストによる新しい生へ、神から招かれています。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...