2020年8月19日水曜日

2020年8月19日(コリントの信徒への手紙二1)

コリントの信徒への手紙二1
「私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈しみ深い父、慰めに満ちた神がほめたたえられますように。神は、どのような苦難のときにも、私たちを慰めてくださるので、私たちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。キリストの苦しみが私たちに満ちあふれているように、私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。私たちが苦難に遭うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。また、私たちが慰められるなら、それはあなたがたの慰めのためであり、この慰めは、私たちの苦しみと同じ苦しみに耐える力となるのです。私たちがあなたがたについて抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがた苦しみを共にしてくれているように、慰めも共にしていると、私たちは知っているからです。」
私はこの手紙の冒頭にあるこの言葉が大好きです。今、また新しい思いをもって、新しい慰めの言葉としてこの言葉を聞きます。私たちも、今、苦難の中に生きているからです。一ヶ月くらい前にある牧師に聞いたのですが、コロナに関するテレビかインターネットかの番組で山中伸弥教授が他の専門家と対談をしている中で、今の情勢は野球で言えば二回表のコロナの攻撃のようなものだとおっしゃっていたそうです。まだまだ戦いは長い。その間に人間社会が崩れてしまわないか、そのことを心配しているということでした。この戦いの長さについては、私たちも少しずつ気づきつつあります。状況は厳しい。いろいろなところで愛が冷え、社会は本当に崩れつつありあす。苦難のときは短くはありません。私たちの目から見れば。
しかし、神はあらゆる苦難の中で私たちを慰めてくださいます。その慰めの事実は、他の教会の仲間の慰めにもなります。私がキリストに慰めていただいていることが、きょうだいの慰めになるというのです。何と素敵な言葉でしょう!
聖書の「慰める」という字は「パラカレオー」といいます。パラは「隣り」という意味で、カレオーは「呼ぶ」という意味です。隣で呼びかける、側にいて語りかけるという字の作りです。苦難の中で苦しみ、嘆き、倒れている者の隣にいて語りかける言葉。それが慰めの言葉です。私たちの苦しみはキリストの苦しみが溢れてきた苦しみであり、そうであるからこそキリストご自身が私たちを慰めてくださる。私たちはキリストの慰めを共有することで一つとなる、キリストの教会です。この苦難のときにも、キリストは私たちの救い主でいてくださる。その事実が変わることは決してないのです。

2024年4月19日の聖句

ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(創世記6:22) (イエスの言葉)「私のこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」(マタイ7:24) 風水害や地震などの自然災害の多い場所に住んでいると、今日の主イエスの言葉はよく分かります。「岩の...