2020年8月18日火曜日

2020年8月18日(コリントの信徒への手紙一16)

コリントの信徒への手紙一16
「私パウロが、自分の手で挨拶を記します。主を愛さない者は、呪われよ。主よ、来たりませ。主イエスの恵みが、あなたがたと共にありますように。私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にありますように。」
パウロの手紙はパウロ自身の直筆ではなく、書記による口述筆記でした。紙は羊皮紙なのかパピルスなのか、いずれにしてもとても貴重なものでした。当然速記をしたなどとは考えられません。一言一言、かみしめるようにして語り、それを書き記していたのでしょう。そうやって、今日の箇所を加えれば16章にもなる大変長い手紙がここまで書き進められてきました。この手紙にはかなり論争的であったり、厳しい言葉もいくつも登場していました。そのどれもがパウロのかみしめるような声と共に発せられたものであることを思うと、胸が熱くなります。現代的なインスタントな意見表明とは随分と違います。パウロにとっても、受け取ったコリント教会の人々にしても、一つひとつの言葉の重みはいかばかりだったでしょう。
そのようにして書いてきた手紙の最後に、パウロは自身の手で挨拶の言葉を書き残しました。その最初の言葉は、少しびっくりしてしまいます。「主を愛さない者は、呪われよ。」私たちが手紙を書くとしたら、呪いの言葉などは通常まず書きません。この時代の文章にはしばしば出てくるものではあります。ここまで激しい言葉を口にせねばならぬほどに真剣な思いで主を愛することにひたむきであったということだと思います。さらにパウロの言葉は続きます。「主よ、来たりませ。」主イエス・キリストが再び私たちのところへ来てくださるその日を待ち望み、私たちは生きている。そこに私たちの望みがかかっています。そうであるからこそ、主を愛しても愛さなくてもどちらでもいい、ご勝手にどうぞ、とは言えなかったのでしょう。
「キリストの恵みが、あなたがたと共にありますように。私の愛が、キリスト・イエスにあって、あなたがた一同と共にありますように。」二つの「共に」という言葉があります。あなたがたと共に、この私自身の愛が、そしてキリストの恵みがありますように。この手紙の言葉に耳を傾け、キリストを紹介する神の言葉を聞くとき、私たちは孤独ではありません。パウロも、歴史の聖徒たちも、そしてキリストご自身が私たちと共にいてくださいます。私たち一人ひとりの今日一日の歩みにも、教会とキリストが、共にいてくださいますように。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...