2020年8月22日土曜日

2020年8月22日(コリントの信徒への手紙二4)

コリントの信徒への手紙二4
「私たちは、この宝を土の器に収めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。私たちは、死にゆくイエスをいつもこの身に負っています。イエスの命がこの身に現れるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。イエスの命が私たちの死ぬべき肉体に現れるためです。」
聖書を読んでいて覚える言葉の一つに「土の器」という言葉があります。キリスト者である作家が書いた小説のタイトルになることもあります。どういう意味で私たちは「土の器」という言葉を口にするのでしょうか。「私のような土の器には、そのような責任ある仕事は負いかねます・・・」といったようなかたちで、謙遜の一つの表現になっているところがあるかもしれません。
しかし、ここでパウロは明らかに謙遜の言葉として「土の器」と言っているわけではありません。パウロは自分がこれまで受けてきた迫害のことを考えています。パウロがここで具体的に考えているのは、自分自身の死のことです。「死すべき私」を「土の器」と呼んでいます。この器は、恐らく、素焼きの器なのでしょう。すぐに欠けてしまいます。ちょっとしたことで壊れてしまいます。そういう、もろくて壊れやすい器、死にさらされた器である儚い私。その土の器に、宝が収められています。イエスの命という宝です。器自体は土くれからできたものに過ぎず、簡単に壊れてしまいます。しかしそうであるからこそ、そこにもられた宝の輝きが一層引き立ちます。この宝はイエスの命であり、滅び行く私たちに命を与えるものだからです。
だから、パウロは言うことができました。「私たちは、四方から苦難を受けても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、迫害されても見捨てられず、倒されても滅びません。」苦難のとき、途方に暮れることはあるのです。それでも、失望はしません。迫害の中で倒されてしまうことはある。それでも、滅びはしない。イエスの命という宝が、この器に盛られているから。今、病に恐れ、苦しみにあえぐ私たち、小さく弱い私たちにこの宝が収められています。私たちは、イエスの命をまとっています。

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