2020年8月23日日曜日

2020年8月23日(コリントの信徒への手紙二5)

コリントの信徒への手紙二5
「だから、誰でもキリストにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じたのです。これらはすべて神から出ています。神はキリストを通して私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに授けてくださいました。つまり、神はキリストにあって世をご自分と和解させ、人々に罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。」
キリストは、私たちを新しくしてくださいました。私たちは、キリストにあって、新しい人間になった。どういうふうに新しくなったのか?神と和解した人間になったのだ、とパウロは私たちに訴えます。キリストが私たちにもたらしてくださった福音は、和解の福音です。
現代は、分断の時代だということがいろいろなところで言われています。政治的理念のための分断。世代による分断。社会的立場による分断。国籍や出自による分断。数え上げればきりがありません。いろいろなところに分断線が引かれています。この線よりも向こう側は、私とは関係のない世界です。
しかし、キリストは和解のために私たちのところへ来てくださいました。分断線を引く私たちの習性を、聖書は罪と呼びます。私たちの罪を乗り越えて神が伸ばしてくださった手、それがキリストの釘に打たれた手です。キリストは、私たちを神と和解させるために、私たちの中に入ってこられたのです。分断線を乗り越えて。
私は、自分は性格的にも線を引きがちだと思います。キリストの手は、そういう線を乗り越えてしまいます。ときにそういうキリストの振る舞いは私にとって心地よくはありません。しかし、聖書を読んで気づかされることは、私はもう新しくして頂いたのだ、ということです。キリストにあって、私も新しくして頂いている。キリストは、この私の口にも和解の言葉を託してくださっています。憎しみの言葉や無関心からくる無視ではなく、和解の言葉をこの口においてくださっている。
キリストは罪を知りません。しかし、神は私たちのためにキリストを罪となさいました。私は分断線を簡単に引いてしまいます。その線の下敷きになったキリストが、その線の責任を取ってくださいました。私たちの和解となるために。このお方の前に進み出て、私たちは今日、神を礼拝するのです。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...