詩編13~14
いつまでですか、主よ。
私をとこしえにお忘れになるのですか。
いつまで御顔を隠されるのですか。
いつまで私は魂に思い煩いを
心に悲しみを日々頂き続けるのですか。(13:2~3)
昨日読んだ詩編11では「心のまっすぐな人は御顔を仰ぎ見る」と言い、神の御顔を仰ぐことこそ救いだと告白していました。ところがこの詩編13では、その神の御顔が見えないのです。詩編11を読んだからこそ、この詩編の絶望の深さが私たちにもよく分かります。そして、神さまの御顔が見えない苦しみや悲しみは、私たちにもよく分かるのではないでしょうか。
神さまの御顔が見えない代わりに見えているのは、敵の顔です。しかも「いつまで敵は私に対して高ぶるのですか」と言っているとおり、高ぶる敵の顔。そんなものは誰も見たくないのですが、目について離れない。いつでも脳裏をかすめ続けている。頭の中が敵の存在で支配されてしまう。私たちにも似たような経験があるのではないでしょうか。
「私はあなたの慈しみに頼り」というのは、本当に切実な祈りです。そうでなければ、自分の心を敵に支配されてしまうからです。神の慈しみだけが頼り。主よ、私を救ってください。そのように祈ります。
このような敵の脅威は、詩編14ではさらに強まっているようです。
主は天から人の子らを見下ろし
神を求める悟りのある者はいないかと探られる。
すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。(14:2~3)
かなり強烈な言葉です。完全に絶望しています。人間という存在がどんなに悪に染まって腐りきっているか、骨身にしみている人の言葉です。しかも、一人か二人、中には悪い人もいるという話ではない。誰も彼も、皆、悪い。もちろん、みんなが悪いと言って責任転嫁しているのでも、独善的に他人を裁いているのでもない。世界に対する深い絶望の言葉です。
「主は天から人の子らを見下ろし」と言っていました。思えば、主イエスさまは天から私たちを見下ろすことのできたお方です。ところが、見下ろして済ますのではなく天から地上に降りてきてくださいました。それどころか、地上の誰よりも低くへりくだり、みんなに踏みつけられました。善を行う者はいない。一人もいない。人の世には絶望するしかない。それでもなお主は世を愛し、ご自身を献げてくださった。その事実に、私たちはただ圧倒されるしかありません。
いつまでですか、主よ。
私をとこしえにお忘れになるのですか。
いつまで御顔を隠されるのですか。
いつまで私は魂に思い煩いを
心に悲しみを日々頂き続けるのですか。(13:2~3)
昨日読んだ詩編11では「心のまっすぐな人は御顔を仰ぎ見る」と言い、神の御顔を仰ぐことこそ救いだと告白していました。ところがこの詩編13では、その神の御顔が見えないのです。詩編11を読んだからこそ、この詩編の絶望の深さが私たちにもよく分かります。そして、神さまの御顔が見えない苦しみや悲しみは、私たちにもよく分かるのではないでしょうか。
神さまの御顔が見えない代わりに見えているのは、敵の顔です。しかも「いつまで敵は私に対して高ぶるのですか」と言っているとおり、高ぶる敵の顔。そんなものは誰も見たくないのですが、目について離れない。いつでも脳裏をかすめ続けている。頭の中が敵の存在で支配されてしまう。私たちにも似たような経験があるのではないでしょうか。
「私はあなたの慈しみに頼り」というのは、本当に切実な祈りです。そうでなければ、自分の心を敵に支配されてしまうからです。神の慈しみだけが頼り。主よ、私を救ってください。そのように祈ります。
このような敵の脅威は、詩編14ではさらに強まっているようです。
主は天から人の子らを見下ろし
神を求める悟りのある者はいないかと探られる。
すべての者が神を離れ、ことごとく腐り果てた。(14:2~3)
かなり強烈な言葉です。完全に絶望しています。人間という存在がどんなに悪に染まって腐りきっているか、骨身にしみている人の言葉です。しかも、一人か二人、中には悪い人もいるという話ではない。誰も彼も、皆、悪い。もちろん、みんなが悪いと言って責任転嫁しているのでも、独善的に他人を裁いているのでもない。世界に対する深い絶望の言葉です。
「主は天から人の子らを見下ろし」と言っていました。思えば、主イエスさまは天から私たちを見下ろすことのできたお方です。ところが、見下ろして済ますのではなく天から地上に降りてきてくださいました。それどころか、地上の誰よりも低くへりくだり、みんなに踏みつけられました。善を行う者はいない。一人もいない。人の世には絶望するしかない。それでもなお主は世を愛し、ご自身を献げてくださった。その事実に、私たちはただ圧倒されるしかありません。