詩編16
諭してくださる主をたたえよう。
夜ごと、はらわたが私を戒める。
私は絶えず目の前に主を置く。
主が右におられ、私は揺らぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び
心の底から喜び踊り
この身もまた安らかに住まう。(7~9)
この詩編は「神よ、私を守ってください」と始まっています。ところが、私にとっては意外なことでしたが、この言葉からすぐに想像するような自分の個人的な苦しみから「私を守ってください」という祈りではないようです。
この詩編は神さまを「諭してくださる主」と呼びます。神は私を諭し、私が誤った道に行くことのないようにただしてくださる方です。それは主こそが幸いであり、この方のもとが私の生きる場だからです。さらに「夜ごと、はらわたが私を戒める」とも言います。ヘブライ人たちははらわたを心の座と考えていました。日本語では「胸」が心の座と考えられていますが、同じようにヘブライ人が「はらわた」と言えば心のことです。私自身の心もまた私を戒める。どのように戒めるのかと言えば、主に我が眼を向けるように、と戒めると言うのです。「主が右におられ、私は揺らぐことがない」。神が私のすぐ右におられ、私を諭し、私の良心を呼び覚まして神に従う者にしてくださる。だから、私の心は喜び、心から喜び躍り、この肉体も安らかに住まうのです。そのように言います。
この詩編の祈りの言葉が表している信仰のあり方は、とても大切な事柄を訴えかけているように思いました。神さまに、私を見ていてくださいと祈っています。それは私が毎日を安心して暮らせるようにということではなく、(あるいはそれも含まれているのでしょうが、少なくともそれだけではなく)私が道を踏み外すことがないように、主よ私を見ていてください、という祈りです。他の神々を追うことをせず、主なる神に目を注ぎ、主なる神の御前に生きる。そこに私の幸いがあるから。神が示してくださった愛と慈しみの道を、主よ、私にも歩ませてください。この詩編はそのように祈ります。
諭してくださる主をたたえよう。
夜ごと、はらわたが私を戒める。
私は絶えず目の前に主を置く。
主が右におられ、私は揺らぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び
心の底から喜び踊り
この身もまた安らかに住まう。(7~9)
この詩編は「神よ、私を守ってください」と始まっています。ところが、私にとっては意外なことでしたが、この言葉からすぐに想像するような自分の個人的な苦しみから「私を守ってください」という祈りではないようです。
この詩編は神さまを「諭してくださる主」と呼びます。神は私を諭し、私が誤った道に行くことのないようにただしてくださる方です。それは主こそが幸いであり、この方のもとが私の生きる場だからです。さらに「夜ごと、はらわたが私を戒める」とも言います。ヘブライ人たちははらわたを心の座と考えていました。日本語では「胸」が心の座と考えられていますが、同じようにヘブライ人が「はらわた」と言えば心のことです。私自身の心もまた私を戒める。どのように戒めるのかと言えば、主に我が眼を向けるように、と戒めると言うのです。「主が右におられ、私は揺らぐことがない」。神が私のすぐ右におられ、私を諭し、私の良心を呼び覚まして神に従う者にしてくださる。だから、私の心は喜び、心から喜び躍り、この肉体も安らかに住まうのです。そのように言います。
この詩編の祈りの言葉が表している信仰のあり方は、とても大切な事柄を訴えかけているように思いました。神さまに、私を見ていてくださいと祈っています。それは私が毎日を安心して暮らせるようにということではなく、(あるいはそれも含まれているのでしょうが、少なくともそれだけではなく)私が道を踏み外すことがないように、主よ私を見ていてください、という祈りです。他の神々を追うことをせず、主なる神に目を注ぎ、主なる神の御前に生きる。そこに私の幸いがあるから。神が示してくださった愛と慈しみの道を、主よ、私にも歩ませてください。この詩編はそのように祈ります。