2021年6月17日木曜日

2021年6月17日(箴言1:1〜19)

箴言1:1~19
これは知恵と諭しを知り
分別ある言葉を見極めるため。
見識ある諭しと
正義と公正と公平を受け入れるため。
思慮なき者に熟慮を
若者に知識と慎みを与えるため。
知恵ある人は聞いて判断力を増し
分別ある人は導きを得る。
箴言と風刺を
知恵ある言葉と惑わす言葉を見極めるため。
主を畏れることは知恵の初め。
無知な者は知恵も諭しも侮る。(2~7節)

箴言、知恵の言葉です。知恵の言葉は、私たちに分別ある言葉を見極めさせます。正義と公正と公平を受け入れ、判断力をもって生きることができるようにさせます。私たちの時代にも、たくさんの言葉が溢れています。知恵あるように装っている言葉もたくさんありますし、自らそのように僭称している人も少なくありません。私たちは玉石混淆とした言葉の洪水の中で、一体どうやって言葉を見分け、知恵を持って生きることができるのでしょうか。
この箴言は、そのために私たちに伝えられています。「箴言と風刺を、知恵ある言葉と惑わす言葉を見極めるため。」一体どの言葉が知恵の言葉であり、どの言葉は単なる風刺、惑わす言葉に過ぎないのか。箴言は明確な基準をもっています。「主を畏れることは知恵の初め」と言っています。主を畏れることを知る知恵なのか、神さまなしでも生きられると嘯く言葉なのか。それが、知恵の言葉なのか惑わす言葉なのかの分かれ道です。
主を畏れる知恵は、例えば10節からのところでは「子よ、罪人が誘いをかけてきても、応じてはならない」と教えます。損得を計算して誰の言葉を信じるのかを決めるのなら、罪人の誘いに応じる方が得だということも時には起こりえます。ところが主を畏れ、主の前に生きる者としてその道を選ぶなら、違う判断が生まれるはずです。私たちは誰の前に行き、誰を恐れて生きるのか。箴言は私たちにそのことを問いかけてきます。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...