2021年6月23日水曜日

2021年6月23日(箴言5)

箴言5
子よ、私の知恵に思いを向け
私の英知に耳を傾けよ
それは慎みを守り
あなたの唇に知識を保つため。(1~2節)

人の道は主の目の正面にある。
主はその道のりのすべてに気を配っておられる。
悪しき者は自らの誤りの罠にかかり
その罪の綱につながれる。
諭しがないために死に至るが
底知れぬ愚かさに酔いしれている。(21~23節)

上に書かれているのは箴言第5章の冒頭と最後の部分です。この間には、姦通の罪への強い警告が書かれています。時代背景が現代とはまったく違うので、男性に対して、他人の妻との関係を戒める内容になっています。現代に移すならば男女関わりなく戒める内容になるに違いないと思います。男女いずれにしても、自分の婚姻関係を清く保つこと、そして他人の婚姻関係をも尊び、汚さないこと。そのことについて長い言葉を継いで、そしてかなり厳しい言葉で戒めています。それは時代が変わっても、背景にある文化や状況が違っても、人間として変わるところのない、共通した弱さであり、罪に誘われてしまいやすい事柄であるからであろうと思います。
ずいぶん以前のことですが、確か読売新聞にあった、何かのコーナーで紹介されていた短歌がありました。強烈な印象を私に残して、今でも良く覚えています。こういうものです。
「今日十たび姦淫をせり沈鬱に 町を歩けばマタイ伝五章」
マタイ伝五章というのはマタイによる福音書5:27~30、特に「情欲を抱いて女を見る者は誰でも、すでに心の中で姦淫を犯しているのである」という主イエスの言葉のことでしょう。私にとっては刺のように刺さり、心に痛みを覚えさせる言葉でした。
ところがあるとき、この聖書の言葉について生島陸伸牧師に、これは人間の存在の根源に罪を見ている言葉だ、と言われました。この罪のためにもキリストはご自分を献げてくださったと分かり、解放されました。先ほどの箴言でも、この知恵の言葉は慎みを与えるものだと言っています。私たちの根源に巣くっている罪。しかしキリストは私たちを根源的に救い、自由で慎みあるものにしてくださいます。この肉体をもつ私が救われ、神が「良くできた」と喜んでくださっている私であることに気付きます。

2024年4月27日の聖句

「私には罪がない」とか、「主の怒りは私から去った」とあなたは言う。「私は罪を犯していない」と言ったために、今、私はあなたに裁きをもたらす。(エレミヤ2:35) イエスよ、あなたが御国へ行かれるときには、私を思い出してください。(ルカ23:42) 十字架にかけられた一人の罪人が主イ...