2021年6月26日土曜日

2021年6月26日(箴言8:1~21)

箴言8:1~21
知恵は呼びかけていないか。
英知は声を上げていないか。
知恵は道沿いの高き所の頂きに
また会堂の四つ辻に立ち
町の玄関である門のそばで
入り口の扉で、喜び歌う。(1~3節)
私は知恵。熟慮と共にあり
知識と慎みを備えている。
主を畏れることは悪を憎むこと。
高ぶり、高慢、悪の道
そして偽りを語る口を、
私は憎む。(12~13節)

知恵の呼び声がここに具体的に記されています。熟慮し、知識を持って慎みを備える。主を畏れ、悪を憎み、高ぶり、高慢、悪の道、偽りを憎む。それが箴言の語る知恵です。ただ物知りだとか頭が切れるとか回転が速いとか、そういうことも含まれるかも知れませんが、少なくともそれですべてではない。悪を憎み、謙遜を学び、正義を求めて生きること。それらを説く「知恵」が街角で私たちに呼びかけている、と言うのです。
道沿いの高き所、会堂の四つ辻、町の門、入り口の扉で知恵が声を上げている。町の門というのは、古代ユダヤの社会では町議会や裁判所のような機能を果たしていたそうです。そういう場所で知恵が呼ばわっているというのは、いわゆる教会や会堂のような信仰の論理で動くべきと誰もが思っている場所以外の社会全体も、箴言が語る意味での知恵によって歩んでいくべきだ、という主張なのではないかと思います。確かに、箴言の時代とは二千何百年の時と場所も文化も違う私たちの社会だって、彼らと同じように、正義と公正によって社会は歩むべきです。悪を憎み、悪の道、偽りの道を退ける知恵を身につけることが必要です。知恵の声に、この社会は耳を傾けなければならない。それは銀よりも、金よりも価値があることです。「銀ではなく、私の諭しを受け取れ。知識は金よりも望ましい」(10節)。
聖書に謙遜と平和を学び、知恵の言葉を街道の巷に呼びかける声に、私たちもして頂きたいと願います。聖書の福音を証しする声に私もならせてください、と祈り願います。

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