2021年6月27日日曜日

2021年6月27日(箴言8:22~36)

箴言8:22~36
主はその道の初めに私を造った
いにしえの御業の始まりとして。
とこしえより、私は立てられていた
太初より、地の始まりから。
まだ深淵もないとき
私は生み出されていた。
大いなる原初の水の源もまだないときに。(22~24節)

とても不思議な箇所です。ここでの「私」というのは、明らかに知恵のことです。知恵が一人称になって、自分がどのように生まれてきたのかということを説いています。知恵は大昔に賢い人間が生み出した、というのではない。世界ができあがってきたいつかの時点で、必要に迫られて造り出された、というのでもない。知恵はこの世界が造り出されるのに先立っている、と言うのです。
私が特に興味を覚えるのは、24節の「まだ深淵もないとき、私は生み出されていた」という言葉です。創世記1:2には「地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。神さまが天地をお造りになったとき、地は混沌であり、闇が底なしの淵を覆っていた。その深淵さえもまだないとき、すでに知恵が生み出されていた、というのです。この世界にも、それどころか造られる最初の混沌よりも先に、知恵が生み出されていた。
ここで私たちはヨハネによる福音書の冒頭を思い起こすことができます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。」初めに言が神と共にあり、他の世界の万物はこの言によって造られた、と言うのです。そうすると、箴言が紹介する知恵とヨハネ福音書が伝える言とは、同じ事柄を指しているのではないかと考えられます。「神が天を確かなものとしたとき、私はそこにいた」(箴8:27)。
この聖書の証言は、世界に対する私たちの目を明るくします。この世界は神の知恵、神の言によって造られた。無秩序とか混沌が支配する世界ではなく、神の言が、神の知恵が支配する世界なのです。私たちはこの事実が証言する根源的な祝福の中に、今日も生かされているのです。

2024年4月17日の聖句

私の魂よ、主をたたえよ。 私の内なるすべてのものよ、その聖なる名をたたえよ。(詩編103:1) 私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように。神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてく...