2023年12月9日土曜日

2023年12月9日の聖句

主よ、あなたは私の魂を陰府から引き上げ、
墓穴に下る者の中から生かしてくださいました。(詩編30:4)
(イエスの言葉)死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。(ヨハネ5:25)

すさまじい言葉です。あまりのことに驚きを隠せないような言葉です。「死んだ者が神の子の声を聞き、聞いた者が生きる時が来る。今がその時である。」主イエスでなければ口にすることのできない言葉です。しかし主イエスがおっしゃったからには、真実の言葉です。神の子の声が響いている。死んだ者にも、生きている者にも。陰府の底にまで響く声です。天の高みにも響きます。生きている者も死んでいる者も、すべての者にキリストの声が響く。今や、その御声を私たちは聞いています。
主イエス・キリストが私たちに見せてくださる将来は、死んでもなお神の声が響くという将来です。死んだら終わりだとは主イエスはおっしゃいません。死んだら何もかも無になるとは主イエスはおっしゃらない。神の言葉は、私たちの命も死も超えて響き続けている。神の言葉、福音の言葉を聞き続けるというのが私たちの将来です。
ただ、死を超えた救いなどと言っても、現代社会では殆ど受け入れがたいものになってしまいました。ある種の宗教的なファンタジーの類いに属する話とみなされているのではないでしょうか。しかし私は同時に考えます。そうやって、この命を超えたところにある救いを拒んだところでこの社会に何が起こったのか、と。例えば、自分が死んだ後の時代に対する責任は、今だけここだけを見ていては持ちにくいと思います。あるいは倫理的に生きる根拠が自分という存在を超えたまなざしを無視しては世間の目になったり、自分のイデオロギーになったりすると思います。世間の目ほど無責任なものはないし、人間は自分のイデオロギーを貫徹できるほど強い存在でもないと思います。自分自身や自分の命を超えた存在や、救いを退けたときに、社会の混迷は深くなっているように私には思えます。
主イエスの御言葉は私たちの存在を超えて、永遠の響きを持って語られ続けます。私たちが死んだ後にもなお意味を持ち続けます。私たちを死から救う力を持っています。この言葉が私たちに命を与え、生きる意味を確かにし、私たちの生きるべき道の指針となる。これほど確かなことはないのではないでしょうか。

2025年1月15日の聖句

姦淫してはならない。(出エジプト記20:14) 夫は妻を蔑ろにしてはならない。妻も夫を蔑ろにしてはならない。(1コリント7:3) 姦淫というと、浮気や不倫という言葉とすぐに結びついて考えられます。しかし単にそれだけではなく、聖書はもっと積極的にこのことを考えているように思います。...