2024年1月13日土曜日

2024年1月13日の聖句

ご覧ください、与えられた生涯は、僅か、手の幅ほどのもの。御前には、この人生も無に等しいのです。ああ、人は確かに立っているようでも、全て空しいもの。(詩編39:6)
(パウロの手紙)だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。(2コリント4:16)

私たちの生涯は短く、人生も空しい。こういう御言葉を読むと、時代は変わり文化や風俗は変わっても、人間の思うところの本質は変わらないのだと感じます。ただし、この人は単に人生は空しいと言っているだけではない。「御前には」とあるとおり、神さまの御前で生きる自分の人生を考えています。永遠なる方の御前に、命の造り主でいらっしゃる方の前に、私の人生は僅かなものであり、無に等しいと告白している。単に人生の短さを嘆いているのではなく、神様の御前で、造られた者としての畏れを込めて、自分の命の儚さを見つめているのだと思います。
私たちの命は短く、苦労は多い。栄華を極めたようであっても一時のことにすぎず、成功も空しいものに過ぎません。人は確かに立っているようでも、全ては空しい。しかし、神の御前でその事実を振り返るとき、その短さや空しさの中に光が射してきます。「だから、私たちは落胆しません。私たちの外なる人が朽ちるとしても、私たちの内なる人は日々新たにされていきます。」神がこの朽ちるべきものを日々新たにしてくださっている。神の御前に、私たちはこの命を尊く生きることが許されている。
神様の御前にあると、気づきます。この命の弱さや儚さ、短さは、神様の御前にある「ひらき」のようなものだ、ということに。私たちは命の儚さを知るとき、傲慢にならず神の御前にへりくだるように導かれています。この弱いもの、脆い土の器に神の永遠の命という宝がもられている。そのことを謙遜に受け止めるための「ひらき」として、神さまは私たちを弱い存在にお造りになりました。神の下さる宝の尊さを私たちが心から知ることができるために。キリストの永遠の命の祝福に、私たちは招かれているのです。

2024年5月8日の聖句

(主は)私の口に新しい歌を、我らの神への賛美を授けてくださった。(詩編40:4) あなたがたは、心の霊において新たにされなさい。(エフェソ4:23) 主が、新しい歌を授けてくださった。すてきな言葉です。「主に、新しい歌を」とは言っていません。主が私の口に新しい歌を授けてくださった...