2025年7月31日木曜日

2025年7月31日の聖句

天が地よりも高いように、主の慈しみは主を畏れる者に示される。(詩編103:11)
しかし、罪が増したところには、恵みはいっそう満ち溢れました。こうして、罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。(ローマ5:20~21)

「天が地よりも高い」というのは、改めて考えてみると当然のことです。空の上にある地面なんてありえません。エベレストのような果てしなく高い山であっても、天はその上に広がっています。当たり前のことです。そうであるからこそ、驚くべき御言葉です。「天が地よりも高いように、主の慈しみは主を畏れる者に示される。」大地の上に当然のこととして天が広がっているのと同じように、当然のこととして、主の慈しみは主を畏れる者に示される。それが必然だ、というのです。すごい御言葉です。
私たちは足りないもの探しが上手なところがあるように思います。不満の種はすぐに見つかります。しかし、主の慈しみは私たちに示されている。この圧倒的な御言葉を畏れつつ受け止めたいのです。
今日の新約の御言葉は、この事実をさらに突き詰めて、究極的に言い表していると思います。「罪が死によって支配したように、恵みも義によって支配し、私たちの主イエス・キリストを通して永遠の命へと導くのです。」罪が死によって支配しているというのは、私たちの周りに広がっている現実そのものです。死を恐れる私たちの心がこの社会を死の奴隷にする。それが罪の力ではないでしょうか。ところが、それよりももっと力強く、そしてもっともっと必然的に、キリストは私たちを神の恵みによって支配してくださいます。神の愛の力で私たちを神の国へ迎えてくださいます。
神の圧倒的な恵みを仰ぎましょう。主イエス・キリストに示された神の愛に打ちのめされて、神の愛の中を生きていきましょう。キリストの祝福が今日もあなたを覆っています。キリストの恵みがありますように。

2025年7月30日水曜日

2025年7月30日の聖句

私の戒めを守って生きよ。
私の教えを目の瞳のように守れ。(箴言7:2)
青年はイエスに言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」(マタイ19:20)

神さまがモーセと出会われたときのことです。神さまはモーセにおっしゃいました。「私は、エジプトにおける私の民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声を聞いて、その痛みを確かに知った」(出3:7,8)。それで、神さまはモーセをお遣わしになって、エジプトからヘブライ人たちを救いだしてくださいました。エジプトから出たら、モーセが主と出会ったこの山に再び来るように、主はおっしゃいます。「あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたがたはこの山で神に仕えることになる」(出3:12)。そして、そのお言葉の通りにエジプトから救い出され、再びこの山に来て神を礼拝し、十戒を頂きました。
神の戒めや教えは、私たちを愛し、その苦しみをつぶさに見、叫びを聞きき、痛みを知ってくださったお方が与えてくださったものです。私たちが神の愛によって与えられた命でもってこの世界を生きるための羅針盤です。神の愛が出発点です。
そのことを忘れるとき、このような言葉が出て来るのだと思います。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」この言葉からは、本当に辛い響きが聞こえてきます。これ以上何を頑張れば良いのか、という苦しさが感じられます。しかし、最初のボタンを掛け違えているのだと思います。私たちが頑張る以前に、もう既に神さまは私たちを愛してくださっています。神の愛が私たちの出発点です。
神さまが私たちにお与えになる戒めは、神の愛のしるしであり、私たちを守る盾です。神さまのものとして生きる道を神ご自身が開いてくださいました。神さまが私たちにお求めになるのは、ただ愛することです。神を愛し、隣人を愛すること。「頑張って愛する」というのは、多分無理です。愛は自発的なものですから。私たちの自発を促すのは、神の愛による満たしです。神の愛を日々確認し、神さまのものとして頂いていることを存分に味わい尽くすとき、私たちの新しい歩みが始まるのではないでしょうか。

2025年7月29日火曜日

2025年7月29日の聖句

主よ、力に満ちて、高くいませ。
私たちはあなたの力強い業を歌い、ほめ歌を歌おう。(詩編21:14)
イエスがいよいよオリーブ山の坂にさしかかられたとき、弟子の群れは皆喜んで、自分の見たあらゆる御力のことで、声高らかに神を賛美し始めた。(ルカ19:37)

私たちは神さまをほめたたえます。主を賛美します。「主よ、力に満ちて、高くいませ。私たちはあなたの力強い業を歌い、ほめ歌を歌おう。」ここで、「あなたの力強い業を歌い」と言っています。私たちは神さまの御業のゆえに、主を賛美する。
神の力強い御業、それは何よりも主イエス・キリストにおいて現されました。しかし改めて考えてみると、イエス・キリストの誕生は羊飼いしか知らない飼い葉桶の中でしたし、その死は犯罪人の一人として十字架に掛けられて迎えました。イエス・キリストにおいて現された神の御業は、私たちの思いとは反して弱さの中で示された御業だったのではないでしょうか。
私たちはキリストをほめたたえます。主イエスさまを賛美します。それは、私たちもまた主イエスにおいて現された救いの道に生きる、ということに他なりません。私たちもまたキリストに倣ってへりくだりの道を行く、ということではないでしょうか。
今日、私たちは「御名を崇めさせたまえ」と祈りつつ、歩んでいきましょう。主イエス・キリストの誕生と死のゆえに。そして、このお方の復活によって現された神の御力のゆえに。

2025年7月28日月曜日

2025年7月28日の聖句

あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。主はその名をみだりに唱える者を罰せずにはおかない。(出エジプト20:7)
天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。(マタイ6:9)

十戒の第3の戒めです。
前半を直訳すると、このようになります。「唱えるな、お前の神である主の名を、空しいことのために。」このように、「みだりに」という私たちの親しんでいる翻訳は、直訳すると「空しいことのために」という意味です。
このようなことが命じられているというのは、私たちの現実として空しいことのために神さまのお名前をみだりに口にしている、ということに他ならないのだと思います。そう思ってわが身を振り返ってみると、自分の主張を正当化するために神さまのお名前や信仰を空しく語ってみたり、言い訳のために神さまを持ち出したり、キリスト者ではない家族や知り合いを心の中で裁く大義名分として神さまを持ち出してしまったり・・・ということが起きているのかも知れません。
神さまは、本当は私たちが神さまを賛美するためにご自身を示してくださいました。「天におられる私たちの父よ、御名が聖とされますように。」私たちは、これこそが私の祈りと告白する恵みに招かれています。私の願いは他の何でもなく、主の御名が崇められ、聖とされること。私たちもそうやって神さまをほめたたえる者にして頂いています。私たちの心の中にはいろいろな思いが渦巻いているし、「みだりに」犯す罪がたくさんあるかもしれません。そうであるからこそ、神を賛美する時に私たちは解放され、新しい思いをもって主の民として生きることができるのです。

2025年7月27日日曜日

2025年7月27日の聖句

今週の聖句:
あなたを造られた主は今言われる。
恐れるな。私はあなたの名を呼んだ。
あなたは私のもの。(イザヤ43:1)

今日の聖句:
主がその民に力を与えてくださる。(詩編29:11)
神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。(2テモテ1:7)

主イエスは弟子たちに、繰り返し「恐れるな」とおっしゃいました。「体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ10:28)、逆風に悩む小舟に乗る弟子たちにも「安心しなさい。私だ。恐れることはない」(マルコ6:50)と言ってくださり、弟子たちを見つめて「小さな群れよ、恐れるな」(ルカ12:32)とも言ってくださいました。主イエスを信じるというのは、恐れなくなるということです。
私はとても臆病な人間です。しかし、本当は臆病は信仰と両立しません。主イエスが「恐れるな」と命じてくださったことを、繰り返し、真剣に受け止めたい、と願います。
「神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。」この御言葉によると、私たちが力を得て生きることができるのは、聖霊のお働きによるということがよく分かります。私たちに力と愛と思慮を与えてくださる聖霊によって、私たちは臆病から解放される。神さまが私に働いてくださるのです。
自分で自分を見つめていても、永遠に救いは訪れません。私の外から神が働きかけてくださる。私をも新しくしてくださる。この神の御業を信じ、待ち望んで、今日の日を生きていきたいと願います。主は、ご自分の民である私たちに必ず力を与えてくださいます。主を待ち望んで、祈り、礼拝を献げましょう。

2025年7月26日土曜日

2025年7月26日の聖句

私はあなたがたの業が結ぶ実に従ってあなたがたを罰するーー主の仰せ。(エレミヤ21:14)
主人は言った。「よくやった。忠実な良い僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」(マタイ25:21)

今日の新約聖書の御言葉は、主イエスのなさった譬え話の中に出てくる言葉です。天の国の話を主イエスがなさった。ある人が旅に出るので、僕たちを呼びました。ある僕には5タラントン、別の僕には2タラントン、もう一人の僕には1タラントン預けました。5タラントンを預かった僕はそれで商売をして、他に5タラントン儲けました。
やがて主人が帰ってきて、僕たちと清算を始めました。5タラントンの僕が主人から預かったタラントンとそこから生み出された儲けを差し出した時、主人はこの僕をお褒めになりました。「よくやった。忠実な良い僕だ。お前は僅かなものに忠実だったから、多くのものを任せよう。主人の祝宴に入りなさい。」
ここで目を惹くのは、「お前はわずかなものに忠実だった」という言葉です。5タラントンという額を預かっています。およそ3万日分の賃金に相当する金額です。約80年間、休みなしで働いて得る賃金、というイメージでしょうか。決して小さな金額ではありません。ところが主人から見たら、それは「僅かなもの」です。
神さまからご覧になったら、私たちの人生に与えられているいろいろなものは、「僅かなもの」なのだと思います。私たちはその僅かなものを巡って右顧左眄し、あるいは恐れ、結局は不忠実になる過ちを犯しがちです。しかし、与えられたものに誠実に、神さまを信頼することを神さまは喜んでくださる、ということではないでしょうか。
主イエスさまは、主を信頼するものをご自分の天の祝宴に招き入れてくださいます。神の与えてくださったものを喜び、信頼して、平安な気持ちで歩んでいきましょう。

2025年7月25日金曜日

2025年7月25日の聖句

神よ、この耳で私たちは聞きました。先祖が私たちに語り伝えたことを。いにしえの日々にあなたのされた業について、先祖が私たちに語り伝えたことを。(詩編44:2)
誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集めます。(2テモテ4:3)

今日の新約聖書の御言葉は、聖書協会共同訳の翻訳をベースにしていますが、新しい日本語表現が使われています。「みみざわり」はもともとは「耳障り」という字で、耳にとっては障りとなる不快な言葉を意味しますが、この「耳触り」というのは新しい日本語ですね。「耳への感触」という字なので、必ずしも悪いことだけを指すのではないようです。ここでは「耳触りのよい話」という翻訳が充てられています。
日本語としてはとても新しい表現ですが、感覚的によく分かります。味で言えば甘い、誰でもすぐに飛びつきたくなるような言葉。甘言という表現もあります。そういう言葉は誰でも聞いていたい。そういう言葉にしか耳を傾けない時代が必ず来る、と聖書は言います。健全な教えはそれに比べればたいへん耳障りなことも多いですから、忌諱されてしまう。もしかしたら、今まさにそういう時代を迎えているのかもしれません。
しかし、私たちは例え耳障りでも、まことの神の言葉を慕い求めます。「神よ、この耳で私たちは聞きました。先祖が私たちに語り伝えたことを。いにしえの日々にあなたのされた業について、先祖が私たちに語り伝えたことを。」私たちを罪と死と悪の力から救いだしてくださるキリストの御言葉を、私たちは耳を傾けて聞く。そこにこそ私たちの命があり、救いがあると私たちは信じています。

2025年7月24日木曜日

2025年7月24日の聖句

主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないでください。(詩編39:13)
(一人の罪深い女が)イエスの背後に立ち、イエスの足元で泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛で拭い、その足に接吻して香油を塗った。イエスは女に言われた。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ7:38,50)

主なる神さまは、私たちの涙を憶えていてくださるお方です。私たちが人知れずに流した涙も、私たちが一人沈み込む思いも、愛に満ちた主イエスは知っていてくださいます。「主よ、私の祈りをお聞きください。私の叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙していないでください。」悲しいことがあると、誰にもこの気持ちは分からないと思い込んでしまいます。苦しいとき、自分は孤独だという思いに囚われてしまいます。しかし、私たちの神さまは、私たちの叫びに耳を傾け、私たちの涙を見逃さず、心に留め、目さずに応えてくださるお方です。
主イエスの御許に来た一人の女がいます。彼女が住んでいた町では誰もが知っている人だったようです。「罪深い女」と呼ばれていました。彼女がこれまでどんな人生を生きてきたのか、一体何をもって「罪深い」と噂されていたのかは分かりません。いろいろな思いを秘めて主イエスの御側へ来たに違いありません。彼女は食事の席におられる主イエスにそっと後ろから近寄り、主の足に涙を流し、自分の髪の毛でそれを拭い、足に接吻して香油を塗りました。彼女が涙と共に主イエスに届けたのは、一心なる愛であったのだと思います。主は彼女の愛を受け入れ、喜んでくださいました。
周囲の人々は彼女を非難しました。しかし、主イエスだけは奇っ怪にも見える彼女の行いの裏にある愛を知ってくださいました。彼女の涙の意味を、主ただおひとりだけが知ってくださいました。誰も知らない目の涙の意味を知り、受け止め、愛をもって応えてくださったのです。主イエス・キリストを、私たちも愛しましょう。ただひたすら、主だけを愛しましょう。

2025年7月23日水曜日

2025年7月23日の聖句

私を広いところに導き出した。
私を助け出し、喜びとしてくださる。(詩編18:20)
神の恵みによって、今の私があるのです。そして、私に与えられた神の恵みは無駄ではありませんでした。(1コリント15:10)

「神の恵みによって、今の私があるのです」というのは、一人パウロだけの言葉ではなく、キリストを信じるすべての人の告白です。
今日の新約聖書の御言葉の直前で、パウロは「私は、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中では最も小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と言っています。キリストを憎み、キリストを信じる者を憎んできた自分。神の教会を迫害してきた私。そんな自分の罪深さは償いようがなく、また、使徒と呼ばれる値打ちなんて自分にあるとは到底言うことができない。しかし、そんな私が今こうしてあることができるのは、神の恵みによる以外には理由がない。パウロはそう告白します。
私たちも同じです。私たちもかつては罪や憎しみ、悪の力の虜でした。しかしキリストが解き放ってくださった。新しくしてくださった。「神の恵みによって、今の私があるのです。」
こういう言葉を目にすると「いやいや、私はまだ罪の虜のままです」と言って否定したくなるかもしれません。ところがパウロは続けて書いています。「そして、私に与えられた神の恵みは無駄ではありませんでした。」パウロは神の恵みによって与えられた新しい人生を、神のために献げました。それは、パウロが完全無欠の立派な人になったという意味ではないと思います。失敗することだってあったはずです。しかしそのたびに神のもとに立ち返り、新しい命に生かされているという事実から始めなおしたのではないでしょうか。神の恵みによって、私は生かされている。ただその事実だけを頼りに生きた。他には頼みがないのです。私たちはもはや自分を見ることを止めて、ご自分の恵みによって私たちを生かしてくださるキリストだけを見つめましょう。主イエスさまだけに目を向けましょう。私たちの至らなさを凌駕する圧倒的なキリストの恵みが、私たちを覆っているのです。

2025年7月22日火曜日

2025年7月22日の聖句

苦しみに遭う前に、私は迷っていました。しかし今は、あなたの仰せを守っています。(詩編119:67)
イエスはシモン・ペトロに言われた。「ヨハネの子シモン、私を愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「私の羊の世話をしなさい」と言われた。(ヨハネ21:16)

今日の旧約の御言葉は「苦しみに遭う前に、私は迷っていました」に続いて「しかし今は」と言っています。「しかし今は」と言うのですから、当然、今は苦しみを経験した後だということでしょう。苦しみを受ける前は迷っていたけれど、苦しみを経験した今はそうではなく、神の仰せを守っている、ということになります。
苦しみを受けたから迷ったとか、厭な目に遭ったから信仰から離れたというのではありません。苦しみの中で神の仰せ、神の言葉を真剣に求めるようになった。信仰が練り上げられた。まさに、苦難が忍耐を生み、忍耐が練達を生んだということではないでしょうか。
シモン・ペトロも最大の試練を味わって、今主イエスの前にいます。裁きにかけられている主イエスを前にして、イエスを知らないと三度繰り返し否定してしてしまいました。信じ、愛してきた方を裏切りました。そのペトロに主イエスご自身がもう一度出会ってくださり、御言葉をかけてくださった。主イエスがペトロに向かって愛の手を伸ばしてくださった。だから、シモンは立ち直ることができました。
「苦しみに遭う前に、私は迷っていました。しかし今は、あなたの仰せを守っています。」私たちにとって苦しみの中で最も大切なことは、主イエスさまの仰せを聞き取り、その御言葉が与えてくださる命に生きることです。今日も主は私たちに語りかけてくださっています。

2025年7月21日月曜日

2025年7月21日の聖句

遠くにいる人にも近くにいる人にも、平和、平和があるように。私は彼を癒やそうーー主は言われる。(イザヤ57:19)
神は、御言葉をイスラエルの子らに送りすべての人の主であるイエス・キリストによって、平和を告げ知らせてくださいました。(使徒10:36)

私たちが神さまから頂いた福音は、主イエス・キリストの平和の福音です。神さまは、神様ご自身と私たちとの間に平和を打ち立て、そして私たちが互いに平和に生きるように、平和の使者としてキリストを遣わしてくださいました。
私たちの生きている国と社会のこれからを考えるとき、切実に平和が来ますようにと祈ります。今日の旧約の御言葉には「遠くにいる人にも近くにいる人にも、平和、平和があるように。私は彼を癒やそうーー主は言われる。」ここに、「私は彼を癒やそう」と書いてあります。癒やすということは、私たちには癒やされなければならない病があるということではないでしょうか。それは、平和を壊すような病ということではないでしょうか。私たちと私たちの社会を捕らえて蝕む、罪の病。
エレミヤ書にこんな言葉があります。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。」私たちの罪の病を知るのは、主なる神さまです。私たちを食い尽くす罪の病を知り、それを癒やし、私たちを救ってくださるのは、主なる神さまをおいて他にはいない。
「神は、御言葉をイスラエルの子らに送りすべての人の主であるイエス・キリストによって、平和を告げ知らせてくださいました。」主イエス・キリスト。このお方こそが私たちを救ってくださいます。キリストこそが私たちを罪の病から癒やし、平和のうちに生かしてくださいます。神との平和、隣人との平和。それはキリストの内にある。キリストとその御言葉に立ち帰りましょう。主イエス・キリストの憐れみを求めて、生きていきましょう。

2025年7月20日日曜日

2025年7月20日の聖句

今週の聖句:
あなたがたは恵みと信仰によって救われたのです。あなたがたの力ではなく、神の賜物です。(エフェソ2:8)

今日の聖句:
主よ、あなたは私たちの中におられます。私たちは御名によって呼ばれています。私たちを見捨てないでください。(エレミヤ14:9)
このアンティオキアで初めて、弟子たちがキリスト者と呼ばれるようになった。(使徒11:26)

アンティオキアはシリア州にある町です。キリスト教会への迫害が激化する中で散らされた人々がこの町にも行き、伝道し、ギリシア語を話すユダヤ人も教会の仲間になりました。ギリシア語を話すユダヤ人、つまり故郷を遠く離れ外国で生活をする移民の家庭に生まれ育ったユダヤ人たちです。アンティオキア伝道は、迫害をきっかけとしてキリストの福音が少しずつ広がりを見せ始めた時期の出来事です。
この教会は本当に生き生きと活動していたようです。やがてパウロを伝道旅行に送り出し、その母教会として支えることになるのもこの教会です。このアンティオキアで、弟子たちが初めて「キリスト者」と呼ばれるようになりました。キリストの名をもって呼ばれる者になった。「主よ、あなたは私たちの中におられます。私たちは御名によって呼ばれています。」弟子たちは、旧約のこの御言葉を身をもって経験することになりました。
ここでとても興味深いのは、「キリスト者と名乗った」のではなく「キリスト者と呼ばれた」ということです。世間の人から、あの人たちはどうやら「キリストの者たち」らしいと言われるようになった。そこには呆れるような気持ちもあったかもしれません。しかしそれだけではなく、あんなに生き生き喜んでいるなんてうらやましいなという気持ちもあったかもしれません。いずれにしても、教会はこの時からキリストのお名前をもって呼ばれるようになったのです。
それは21世紀まで続いています。私たちも同じように呼ばれています。この名を誇りましょう。キリストのお名前で呼ばれる者にして頂いたこと、キリストの恵みによって喜んで生かされていることを。

2025年7月19日土曜日

2025年7月19日の聖句

私の魂はただ神に向かって沈黙する。
私の救いは神から。(詩編62:2)
あなたがたを苦しめている者には苦しみをもって報い、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に安らぎをもって報いてくださるのが、神には正しいことなのです。(2テサロニケ1:6~7)

今日の新約聖書の御言葉はテサロニケの信徒への手紙の一部分です。テサロニケはマケドニア州の首都で、この教会はパウロの宣教旅行によって生み出されました。ユダヤ人も異邦人もいる教会。この教会はやがて迫害に晒されることになります。今日のところで「苦しめられている」と書かれていますが、そういう意味での苦しみのことを言っているものと考えられます。
今日の御言葉は何気なく読むとあまりにも激しくて驚いてしまうような強さがありますが、このような事情をくみ取ると、また少し違って聞こえ方がしてくるのではないかといます。「あなたがたを苦しめている者には苦しみをもって報い、苦しめられているあなたがたには、私たちと共に安らぎをもって報いてくださるのが、神には正しいことなのです。」この町の教会は、神の国を待ち望んでいました。キリストの国を待ち望んで苦しみを忍耐していました。ですから、神が報いてくださるというのは、救いの約束そのものです。必ず神が私たちを救ってくださる。決して見放すことはない。信じてキリストを待ち望もう、とこの手紙を書いたパウロは励まします。
私たちの救いは神から来る。キリストが私たちに報いてくださる。それは、私たちのための約束でもあります。キリストの救いを待ち望んで、私たちも今日生きていきます。

2025年7月18日金曜日

2025年7月18日の聖句

私たちの背きは眼前に立てられていて、私たちは自らの罪を知っています。私たちは主に背いて欺きました。(イザヤ59:12~13)
たとえ罪を犯しても私たちには御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます。(1ヨハネ2:1)

なんとありがたく、恵みに満ちた御言葉なのでしょう。「たとえ罪を犯しても私たちには御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます。」
ここに「例え罪を犯しても」とあります。私たちの実態は「たとえ」とすら言えない、自分の前にうずたかく積もりに積もっている罪を目の当たりに、もうどうすることもできない・・・ということでしかないのかもしれません。「私たちの背きは眼前に立てられていて、私たちは自らの罪を知っています。私たちは主に背いて欺きました。」そうです。私たちは主に背いてきました。それはごまかしようのない事実です。神さまを蔑ろにし、神さまがお喜びにはならない私でした。「身から出た錆び」という言葉がありますが、「私」という身から出て来る錆にはきりがない。いつまで経っても終わらない、尽きることのない錆が出続けている。思うところにおいて、口から出て来る言葉において、することとしないことにおいて、そのときに「正しい」と思い込んでいることがどんなにねじ曲がってしまっていることか。
しかし、聖書は約束します。「たとえ罪を犯しても私たちには御父のもとに弁護者、正しい方イエス・キリストがおられます。」私たちはこの光のような御言葉を聞くことをゆるされています。私たちのために弁護してくださるお方がいるのです。私たちの罪を覆ってくださるお方がいるのです。私たちはもはや自分の罪にばかり目を向けるのではなく、キリストに目を向けることができる。キリストの赦しの光の中で、私たちの口に真実な悔い改めの祈りが生まれるのです。

2025年7月17日木曜日

2025年7月17日の聖句

主よ、私を癒やしてください。そうすれば私は癒やされます。私を救ってください。そうすれば私は救われます。(エレミヤ17:14)
「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを知らせよう」。そして「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。その人はすぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神を崇めながら家に帰っていった。(ルカ5:24~25)

主イエス・キリストは権威あるお方です。このお方が「あなたの罪は赦された」と宣言してくだされば(そして、事実宣言してくださいましたが)、私たちの罪は赦されます。このお方が「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい」と宣言してくだされば、その通りになるのです。キリストの権威ある言葉。これこそ私たちの救いの言葉です。
キリストの言葉の権威を、その力を、しっかりと私たちの胸に刻み込みましょう。主イエス・キリストの言葉の力によって、私たちも命を頂いていることを今日改めて確認しましょう。
私たちは、キリストの「あなたの罪は赦された」という言葉を頂いて生きています。「あなたは救われた」とキリストが私にも語りかけてくださったから、私たちは救われました。キリストが神の愛を告げてくださったから、私たちは神の愛の中に生かされています。キリストが私たちのために「父よ、彼らをお赦しください」と祈ってくださったから、私たちはどのような時にも希望をもって生きることができます。
キリストに癒やして頂いたこの人は、御言葉を頂いた後「すぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた床を担いで、神を崇めながら家に帰っていった」と伝えられています。キリストの言葉が一人の人に新しい出来事を起こしました。私たちにも同じ神の言葉の出来事が起こります。今日、私たちもキリストの言葉を頂いています。

2025年7月15日火曜日

2025年7月14日の聖句

(ソロモンの言葉)見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。(列王記上8:27)
まことの礼拝をする者たちが、霊と真実をもって父を礼拝する時が来る。(ヨハネ4:23)

ソロモンが建てた神殿は一体どのような建物だったのでしょう。いろいろな資料を調べると、聖書の記述をもとにして図にしてくれているものもあります。しかし、実際のその建物を見、またそこで礼拝を献げるというのは、絵で見るのとは全然違う体験です。それを直接味わえないのはなんと残念なことか、と思います。
イスラエルの信仰共同体にとって、この神殿は大きな喜びであったに違いないと思います。7年という年月をかけて建築されました。エルサレムの都に神殿が建ち、人々は都に上って神を礼拝する。私たちは、そういう神の民の営みのずっと子孫のところにいます。
ところが、この神殿を神に献げたソロモンは言います。「見よ、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの神殿などなおさらです。」まさに、ここにソロモンの実感が込められていたのではないかと思います。大変な思いをして神殿を建築し、それを献げるソロモンであるからこそ、心から感じたに違いない。このような建物に神をお入れすることなどできない。神はもっと偉大で、大きく、果てしないお方。この世界をお造りになった方。そのお方を私が造ったものに収めてしまうだなんて、考えられない!
主イエスさまは「まことの礼拝をする者が、霊と真実をもって父を礼拝するときが来る」とおっしゃいました。これは、主イエス・キリストにあって神を礼拝する、ということであろうと思います。どんなに素晴らしい神殿も礼拝堂もお収めすることのできない偉大なお方を、私たちはキリストを通して礼拝することができる。キリストを見た者は神を見、キリストを信じる者は神を信じているからです。キリストによって神はご自分を私たちに現してくださいました。このお方の御前で、私たちの新しい一日が始まります。

2025年7月14日月曜日

2025年7月14日の聖句

あなたが造った神々はどこにいるのか。災難に遭ったとき、あなたを救えるのなら。(エレミヤ2:28)
私の愛する人たち、偶像礼拝を避けなさい。(1コリント10:14)

偶像礼拝。それは、私たちの願望が造り出す神への礼拝です。偶像の神は私たちの願いの奴隷です。ですから何らかの目に見える像があるかないかということよりももっと大きな問題があるのではないでしょうか。私たちの主人は私自身や私の願望なのか、あるいはまことの神なのか。それが本当に問われていることだと思います。
それでは、私たちが何らかのことを神に願ったり、助けてくださいと祈ったりするのはいけないことなのでしょうか。自分の願いを神さまに祈ったら偶像礼拝ということになってしまうのでしょうか。
今日の御言葉はこのように語りかけています。「あなたが造った神々はどこにいるのか。災難に遭ったとき、あなたを救えるのなら。」ここで言われているのは、結局偶像にはあなたを救う力はない、ということではないでしょうか。偶像は人間の造ったものに過ぎない。本当に私たちを救う力があるのは、主なる神さまに他ならない。まことの神こそが私たちを災難から救うことがおできになる。
私たちは、苦しいときや悲しいとき、辛いときに神さまに祈ることが許されています。神さまは私たちの祈りを待っていてくださいます。私たちの神さまは私たちをご自分の目の瞳のように愛してくださっています。だから、私たちはこのお方に祈る。確かに私たちは時に間違ってしまうかもしれないし、神さまを偶像扱いしてしまう過ちも犯してしまうかもしれない。しかし、真の神さまは私たちの願い以上のことをすることがおできになります。私たちが考えている以上に素晴らしい救いを私たちに与えることがおできになる方です。だからそのことを信じ、神を信頼しましょう。安心して祈りましょう。私たちの小さな願いよりもずっと大きな神さまを信頼して、わが身をも神に委ねてしまいましょう。

2025年7月13日日曜日

2025年7月13日の聖句

今週の聖句:
互いに重荷を担いなさい。そうすればキリストの律法を全うすることになります。(ガラテヤ6:2)

今日の聖句:
主よ、夜には心からあなたを慕い求め、朝には私の霊をもってあなたを捜し求めます。(イザヤ26:9)
朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。(マルコ1:35)

ルードルフ・ボーレンというスイスの牧師が教えてくださった祈りを思い起こします。朝、一日の始めに使徒信条をもって祈る。ただ唱えるだけではなく、今日会う人を思い、その一人一人のために神が何をしてくださったかを、使徒信条の言葉に導かれて思い起こして祈る。そして、一日が終わる夜、その日会った人のことを思って再び使徒信条の言葉で祈る。神の祝福の光の中で、今日の出会いを振り返る。
私たちは、朝に祈り、夜に祈ります。神の祝福の光の中に私も置かれているし、今日出会う人・出会った人も置かれています。神は御顔の光を私たち一人ひとりに向けてくださっています。主を呼び、主を捜し求めましょう。必ず、神さまは大いなる祝福をもって私たちに応えてくださいます。キリストの祝福は、朝も夜も、いつでも私たちに向けられています。そのことを信じ、今日の日を平安のうちに歩んでいきましょう。

2025年7月12日土曜日

2025年7月12日の聖句

主はこう言われる。私は恵みの時にあなたに応え、救いの日にあなたを助けた。(イザヤ49:8)
今こそ待望していた時、今こそ救いの日。(2コリント6:2)

今こそ、と今日の新約聖書の御言葉は言います。「今こそ」です。救いの日は、もう私たちのところへ訪れています。今日、この御言葉を聞いたこの日、あなたに救いが訪れました。神の恵みの日、神が私たちを救ってくださる日が今日やってきたのです。
この事実を、あなたは信じているでしょうか?主イエスさまは今日、ここに来ておられて、あなたに向かって手を伸ばしておられます。私たちがイエス様のところへたどり着いたのではありません。私たちの努力の結果、神さまのところへ行くことができたのではないのです。キリストが私たちのところへ来てくださった。だからこそ、今日は待望していた日です。キリストが来てくださったからです。キリストの方から手を伸ばしてくださったから、今日は救いの日です。
まるでイエス様がまだ来られていないかのような自己嫌悪に陥ってはいないでしょうか?まるでキリストの救いがなかったことになってしまったかのような絶望に駆られてはいないでしょうか?キリストがもう既に私を救ってくださいました。だから、大丈夫です。私たちはもはや暗闇ではなく光の中にいます。神さまの手の中に生かされています。安心して、今日の日を生きていきましょう。キリストの限りない恵みが、今日もあなたにありますように。

2025年7月11日金曜日

2025年7月11日の聖句

主よ、あなたの永遠の秩序を想起するとき、私は慰められました。(詩編119:52)
私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたのではない天にある永遠の住まいです。(2コリント5:1)

「あなたの永遠の秩序」と書かれています。「秩序」と翻訳されている言葉ですが、聖書協会共同訳では「裁き」と翻訳されています。ミシュパートという単語で、裁き、正義、命令、法、などといった意味があります。私たちには私たちの裁きや正義があります。日本には日本の法があるし、秩序があります。しかし人間のつくり出す秩序は決して永遠ではありません。
キリスト者の作家の三浦綾子さんが『道ありき』という自伝を書いておられます。三浦綾子さんは満17歳になる前に、小学校の教師になりました。熱心に勤めました。軍国教育の時代です。しかしやがて敗戦を迎える。アメリカ軍が進駐し、これまでの教育は誤りであったとされ、子どもたちに教科書を墨で塗らせた。絶望し、自分にはもう教壇に立つ資格はないと考え、教職を辞しました。
どれほどの絶望であり、どんなに深い虚無・虚脱であったのか、想像を絶します。人間の建てた秩序は、その正義がどれほど絶対的に正しいと思われたものであったとしてもやがて崩れてしまいます。正しいと思っていたものも悪とされるし、悪と軽蔑されていたものが実は正しかったとされることもあります。人間の営みは空しいものです。
しかし、神の建てる秩序は人間のものとは違います。神の正義は永遠です。だから私たちは天を見上げます。そこから来られるキリストを待ち望みます。正義も正しい裁きも、神とその御子とにあると私たちは信じています。私たちは移ろうし、不確かだし、相対的な存在に過ぎない。ですから、神の御前にへりくだりましょう。神を畏れて身をかがめましょう。私たちを虚無や虚脱、悪と罪と死の力から救いだしてくださるキリストを待ち望みましょう。

2025年7月10日木曜日

2025年7月10日の聖句

私の戒めを守り行いなさい。私は主である。(レビ22:31)
私を愛する人は、私の言葉を守る。私の父はその人を愛され、父と私とはその人のところに行き、一緒に住む。(ヨハネ14:23)

私たちは主イエスさまを愛し、主イエスさまの言葉を愛します。私たちはキリストがお命じになったように生きる。少なくとも、そう志します。
ボンヘッファーが『キリストに従う』という本で、私たちの神の恵みに対する態度によって、神の恵みが二つのものに分かれている、という趣旨のことを言っています。一つは「安価な恵み」です。安価な恵みは「罪の義認のことであって、罪人の義認のことではない」。つまり、神の恵みを安価に扱う人は、自分の罪の赦しを既に手に入れてしまっている。神に従おうとせず、自分で自分を救う神の恵みをほしいままにし、そうやって神の恵みを安っぽい、大安売りの、価値のないものにしてしまっている。
しかし、そうではない恵みがある。それが「高価な恵み」です。高価な恵みは「服従へと招くがゆえに高価であり、イエス・キリストに対する服従へと招くがゆえに恵みである」とボンヘッファーは言います。キリストの命によって支払われたからこそ高価であり、私たちのために神の子が犠牲になったからこそ高価です。高価な恵みは、私たちが自分の十字架を背負ってキリストに従うように求める。そして、「私の軛は負いやすく、わたしのには軽い」と言ってくださるから、「恵み」です。
キリストを愛する私たちは、キリストの言葉を守ります。「私の父はその人を愛され、父と私はその人のところに行き、一緒に住む」とキリストは約束してくださいます。キリストに従い、キリストの示してくださった高価な恵みに生かされる新しい歩みへと出発したい。そのように願います。

2025年7月9日水曜日

2025年7月9日の聖句

かつて、引き抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらすために彼らを見張っていたが、同じように、建て、植えるために彼らを見張るーー主の仰せ。(エレミヤ31:28)
救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨てて今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教えています。(テトス2:11~12)

今日の旧約聖書ですが、「引き抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらすために彼らを見張っていた」というのは、とても厳しい言葉ですがよく分かります。そもそも「見張る」というのは、そういうことだと思います。何か悪いことがないか、あれば罰を与えたり、報いを受けさせたりする。「見張る」というのは、そういうことだと思います。
ところが、今日の御言葉はかなり不思議なことを言っています。「建て、植えるために彼らを見張る」。建てたり植えたりというのは、つまりは「あなたたちを回復させるため」という意味でしょう。引き抜かれ、壊され、破壊され、滅ぼされ、災いを下された者たち。つまり、神に裁かれた者たち。私はあなたを建て、植えるために見張っているのだ、と主は言われます。「見張る」という言葉がうまくマッチしないように感じてしまいます。
しかし、主なる神さまはまさに私たちを見張っておられる。私たちを救い、私たちに恵みをお与えくださるために、私たちのことをじっと目を凝らしてつぶさにご覧になっている。神が私たちを新しくするために、私たちに目を向けてくださっているのです。「救いをもたらす神の恵みはすべての人に現されました。その恵みは、私たちが不敬虔とこの世の欲とを捨てて今の時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生きるように教えています。」敬虔な者として、神は私たちを新しく生かしてくださいます。主の恵み深いまなざしの中で、今日の日を生きていきましょう。

2025年7月8日火曜日

2025年7月8日の聖句

神は深遠なこと、隠されていることを明らかにされる。(ダニエル2:22)
(イエスの祈り)正しい父よ、世はあなたを知りませんが、私はあなたを知っており、この人々はあなたが私をお遣わしになったことを知っています。(ヨハネ17:25)

「世はあなたを知りません」と主イエスが祈っておられます。そうなのです。主イエスがおっしゃるとおり、私たちは神を知りません。私たち世の知恵は、神を知ることができません。「神」と私たちが思っているものは、そう思い込んでいるだけでまことの神でも何でもない。それは、世の中のいろいろな宗教とか神話とか、そういうものには留まりません。哲学や科学技術に代表されるような人間の知恵の粋もそうです。あるいは、キリスト教という宗教だって例外ではない。私たち人間の営みがまことの神に到達することなんて、絶対にできません。「正しい父よ、世はあなたを知りません」。
しかし、主イエスだけはそうではありません。「私はあなたを知っており」。主イエスはまことの神を知っておられる。なぜなら、このお方はまことの神ご自身に遣わされて、私たちのところへ来てくださったからです。だから、まことの神について、私たちはただイエス・キリストによってだけ知ることができる。このお方の言葉、このお方のなさったこと、このお方の存在そのもの。キリストこそまことの神を私たちに示す、ただ一つの神の言葉です。
私たちはまことの神を知らないし、知ることはできないし、こちらから到達することは絶対にできません。しかし、神さまの側から私たちにご自身を示してくださいます。「神は深遠なこと、隠されていることを明らかにされる。」主イエス・キリストを通して。キリストとキリストを証しする御言葉に耳を傾けましょう。ここに神の御心がある。私たちはそのことを信じ、感謝しつつ、へりくだってキリストに耳を傾けましょう。

2025年7月7日月曜日

2025年7月7日の聖句

私たちが低くされていたとき、抑圧されていたとき、主は私たちのことを思い浮かべてくださった。なぜならその慈しみは永遠だからです。(詩編136:23)
私はこの福音のための使者として鎖につながれていますが、私が口を開くときに言葉が与えられ、堂々と福音の秘儀を知らせることができるように、私のために祈ってください。(エフェソ6:19~20)

エフェソの信徒への手紙は使徒パウロの手紙ですが、獄中書簡と呼ばれる手紙の一つで、パウロが牢獄に捕らわれているときにしたためられたものです。「私はこの福音のための使者として鎖につながれています」。しかしそのようなときであってもパウロが願っていたのはただ一つのことでした。「私が口を開くときに言葉が与えられ、堂々と福音の秘儀を知らせることができるように、私のために祈ってください。」例え牢獄にいようとも、他のどこにいようとも、パウロは福音の秘儀を知らせることができるように、主イエス・キリストの福音を証しする者となれるようにという一つのことを願い、そのために生きていました。
キリストの福音。それは「私たちが低くされていたとき、抑圧されていたとき、主は私たちのことを思い浮かべてくださった。なぜならその慈しみは永遠だからです」とあるとおり、私たちがどのような状態にあり、私たちがどのような者であったとしても私たちへの慈しみを示してくださる神の愛のことです。私たちを生かしてくださっている神の愛です。
パウロと同じように、私たちも神の愛によって生かされています。この福音を証しする証し人として、神は私たちをこの世界へ遣わしておられます。私たちがどこにいても、何をしていても、強い日にも弱い日にも、キリストの愛が私たちを生かしてくださっている。その一事に生かされ、またこの喜びを証しする一日でありますように。

2025年7月6日日曜日

2025年7月6日の聖句

今週の聖句:
人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。(ルカ19:10)

今日の聖句:
悪しき者はその道を捨て、自らの思いを捨てよ。主に立ち帰れ。そうすれば主は寛大に赦してくださる。(イザヤ55:7)
神の和解を受け入れなさい。(2コリント5:20)

NHKの朝ドラで「あんぱん」という作品を放映しています。少し前まで太平洋戦争の時代を描いていました。戦争について、日本で制作する他の多くの作品と少し違う描写がありました。主人公はやなせたかしさんをモデルとした人物ですが、この人が旧日本陸軍の伍長として中国で体験した日々が描かれていました。太平洋戦争が話題になる多くの作品では、空襲や原爆などの日本の被害が中心になります。しかし「あんぱん」では日本の加害について触れていました。兵站が途絶えて飢えた日本兵が中国人から食べ物を略奪していました。
戦争は、本当に複雑なできごとです。どこかに線を引いて加害者と被害者を完全に区別してみせることは非常に難しいです。日本の一般市民にも、被害者である部分と加害者である部分が混在しています。それは恐らく戦争だけではなく、他のいろいろな軋轢でも同じなのだと思います。いろいろな場面で、私たちは加害者でもあり、被害者でもある。ある人に対しては強者であり、別の人に対しては弱者になる。
「神の和解を受け入れなさい」と聖書は言います。聖書が私たちに語りかける福音は、和解の福音です。神は、私たちの敵です。私たちは神を憎んでいます。だから、私たちの世界は壊れ、私たちは憎み合い、分断やヘイトがこんなにあからさまな世界になってしまっている。ところが神ご自身が私たちに和解の手を伸ばしてくださいました。私たち自身にはもうどうすることもできません。誰が加害者で誰が被害者なのかさえ分からない。「強くて悪い人」と「弱くてかわいそうな人」がいるのではなく、皆が誰かを憎み、他の人を罵っている。この世界では「和解」が絵空事になっています。そんな私たちに、神が和解の手を伸ばしてくださった。神が伸ばしてくださった和解の手、それはイエス・キリストです。
主のもとに立ち返りましょう。自分の道を離れて、主のもとに帰りましょう。必ず主は赦し、受け入れてくださる。私たちは神が伸ばしてくださった和解の手を受け入れるとき、神がどんなに私を深く愛し、大きな赦しの手で包んでくださっているかを知るのです。そして、まさにここで私たちの世界の和解が始まるのです。

2025年7月5日土曜日

2025年7月5日の聖句

ご覧ください、主よ。
私は本当に苦しいのです。
私のはらわたは痛み
心は私の内で動転しています。
私が逆らい続けたからです。(哀歌1:20)
(ある女の言葉)「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」(ヨハネ4:29)

日本語の語感では、心の座は胸です。「胸が痛む」と言えば、多くの場合は心臓や肺のことではなく「心が痛む」という意味になります。ヘブライ人たちは、心の座を「はらわた」と考えていたようです。「はらわたが痛む」と言えば「心が痛む」ということを意味します。しかも、今日の御言葉の「はらわたは痛み」は、通常ではないほどの大きな痛みであったようです。「私のはらわたは痛み、心は私の内で動転しています。」心が動転してしまうほどのはらわたの痛み。腸がねじれてちぎれるほどの心の痛み。
なぜ、そこまで深く痛んでいるのか。哀歌はユダの国が戦争で敗れて焦土となり、民は捕囚となってしまった時代の言葉です。文字通りに国が崩壊し、何もかもがメチャクチャになってしまいました。虚脱の時代です。しかし、この苦しみの原因を考えるならば、「私が逆らい続けたからです」と告白しているとおり、私たちの罪が生み出した実りだとしか言いようがない。自分たちの誤った行いがこのような悲惨を招いてしまった。この苦しさから、主よどうか憐れんで救ってください。そう祈るしかないのです。
今日の新約の御言葉で「さあ、見に来てください。私のしたことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」とあるとおり、私たちを本当に救いうるのは、私たちのことを極みまで知り尽くしておられるお方、しかもその上で憐れみをもって救おうと言ってくださるお方だけです。私たちの行いや隠しておきたいものが露わになれば、救われようがない。それでもなお救う意志を貫いてくださる神だけが私たちを救うことがおできになる。主イエス・キリストは、そういう神でいてくださるのです。

2025年7月4日金曜日

2025年7月4日の聖句

あなたは私の隠れ場、私の盾。
あなたの言葉を待ち望みます。(詩編119:114)
私の父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、私がその人を終わりの日に復活させることである。(ヨハネ6:40)

「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」、それが主イエス・キリストの父なる神様の御心だ、と主イエスは教えてくださいます。「皆」と言っておられます。全員です。誰一人、分け隔てなく、すべての人に永遠の命を得させることを、神さまは願っていてくださるのです。
主イエスのおっしゃるこの「皆」を狭めてしまわないように、よく注意しましょう。私たちの思っているところよりも、父なる神様の御心はずっと広いのです。私たちはすぐに条件付けをしてしまいます。信仰深いとか、立派な祈りをしているとか、周囲から評価され褒められているとか。もしかしたら、信じるということさえも、何かの意味で立派な行いの一つであるかのようにして、神さまに突きつける条件にしてしまうことさえあるかもしれません。裏返すと「信じる私を神さまはどうして知らんふりするのか」ということにだってなりかねないのです。
父なる神様の御心は、主イエス・キリストにあってすべての人に永遠の命をお与えになること。そして、キリストがそんな私たちを終わりの日に復活させること。私たちの命を超えた救いの希望がある。あなたのために、ここに備えられている。キリストは私たちにそう語りかけてくださっています。この救いの約束の中で、私たちの一日も始まります。

2025年7月3日木曜日

2025年7月3日の聖句

人間の心は自分の道のことに思いを巡らすが、主がその一歩を確かなものとする。(箴言16:9)
言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。(コロサイ3:17)

神さまを信じる私たちにとって、自分の生き方や普段していることが本当に神さまの御心に適っているのか、自分が神さまの道を歩み得ているのか、ということは大きな問題ではないでしょうか。神さまのお名前を口にしながら自分勝手な主張や欲求を正当化しているということが私たちは起こりうるし、むしろ自分を省みればそのようなことばかりだと言わざるを得ないのが現実ではないでしょうか。困ったことに、不信仰はしばしば信仰深い顔をします。周りの人を騙すだけではなく、自分のことも騙してしまう。そして、神さまを騙そうとしてしまう。私たちにはそんな厄介な性質が染みついているのではないでしょうか。
「言葉であれ行いであれ、あなたがたがすることは何でも、すべて主イエスの名によって行い、イエスによって父なる神に感謝しなさい。」ここに「主イエスの名によって行い」と書いてあります。主イエスの名によって行うとはどういうことなのか?イエス様のお名前をむやみに濫用するとか、それを騙るということではないでしょう。むしろ、主イエスのようにへりくだるということではないでしょうか。主イエスが私にしてくださったように隣人のための損を引き受ける、ということではないでしょうか。キリストをまねる道こそ、神さまの道ではないでしょうか。
そこには父なる神への感謝がある、と使徒パウロは言います。損をしながら感謝をするというのはいかにも奇妙に感じますが、神を信じるとはそういうことなのだと思います。なぜなら、それこそキリストが私のためにしてくださったことだからです。キリストが私のためにしてくださった愛をいつも心に刻み、それに生かされ、キリストに似た者にならせてくださいと祈り、今日の日を歩んでいきたいと願います。

2025年7月2日水曜日

2025年7月2日の聖句

主は高くおられ、低くされた者を顧みる。遠くから、高慢な者を見抜かれる。(詩編138:6)
(ある金持ちの言葉)「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。「愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。」(ルカ12:19~20)

主イエスの譬え話です。ある金持ちの畑が豊作だったので、この人は作物をしまうためにこれまでよりも大きな倉を建てることを計画して、独りごちました。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」主イエスは、この男は「愚か者」だとおっしゃっています。しかし、考えてみれば私たちの社会はこの男の考えたとおりに動いています。そもそも蓄えがないと私たちはたちまち困ってしまうでしょう。むしろ蓄えておかない方が愚かだ、と社会では考えられていると思います。そうだとしたら、主イエスはこの男の一体何が愚かだとおっしゃっているのでしょうか。
この話をなさる前に、主イエスはおっしゃっています。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」主イエスは、この男は貪欲だとおっしゃっています。そして、その貪欲によって自分の命を支えようと考えた。ここにこの男と私たちの問題があるのではないでしょうか。神が私たちの魂を取り上げるのに、財産の多寡は関わりがない。ちょっとふさわしくない表現ではありますが、「地獄の沙汰も金次第」ではないのです。
詩編は言っています。「主は高くおられ、低くされた者を顧みる。遠くから、高慢な者を見抜かれる。」私たちに必要なのは、造られたものとしてのへりくだりです。自分で自分の命をどうすることもできない者としての謙遜です。自分の持っているもの(それが財産であろうと努力であろうと、他の何であろうと)によって命を左右することができるという高慢な思い込みを捨てて、神の前にへりくだることが大切ではないでしょうか。私たちの神さまは、私たちの髪の毛一本でさえも憶えていてくださるほどに私たちの命に関心を持ち、ご自身が私たちのために心配してくださるお方なのです。

2025年7月1日火曜日

2025年7月1日の聖句

7月の聖句:
何事も思い煩ってはなりません。どんな場合にも、感謝を込めて祈りと願いを献げ、求めているものを神に打ち明けなさい。(フィリピ4:6)

今日の聖句:
たとえこの身も魂も衰えようとも、そうであっても、神よ、あなたは常に私の心を慰め、私の一部。(詩編73:26)
(先見者ヨハネの記録)聖なる方、真実な方がこう言われる。「私はあなたの行いを知っている。見よ、私はあなたの前に門を開いておいた。誰もこれを閉じることはできない。」(黙示録3:7,8)

私たちは、身も魂も衰え、やがて滅びるべき存在です。私たちは限りあるもの、造られたもの、衰え、朽ちていきます。しかし「そうであっても」と聖書は言います。私たちは身も魂も衰え、滅びるし、やがて忘れ去られるし、弱い存在です。しかし「そうであっても」神が私の心を常に慰めてくださる。神が私を覚えていてくださる。それどころか、神は「私の一部」と信じることさえも許されているのです。驚くべき言葉です。神さまは、私たちの一部となるほどに私たちに深く入り込んでくださって、私たちと共にいてくださいます。この滅ぶべき私たちに、朽ちていく私たちに、永遠なるお方が伴ってくださるのです。
ここでヨハネが幻の中で聞き取っているのは、主イエスの御声です。主は言ってくださいます。「私はあなたの行いを知っている。見よ、私はあなたの前に門を開いておいた。誰もこれを閉じることはできない。」キリストが開いてくださった門というのは、天の国の門と捉えてよいのではないかと思います。キリストが私たちのために天の国を開いてくださっている。罪の中で朽ちて死んでいく私たちのために、天の国の門を開く権能を持っておられる方が戸を開いてくださっている。
聖書が見つめているこの事実に、私たちの生と死の秘密があるのです。

2025年8月29日の聖句

万軍の主よ。あなただけが地上のすべての王国の神であり、あなたが天と地をお造りになったのです。(イザヤ37:16) 万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。(ヨハネ1:3) 天と地とそこに満ちるすべてのものは神がお造りになった。しかも、言によって。そのように...