2023年8月31日木曜日

2023年8月31日の聖句

主は天からのパンで彼らを満ち足らせた。主が岩を開かれると水がほとばしり川となって砂漠を流れた。これらのことは主が聖なることばを覚えておられたからである。(詩編105:40~42)
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。(マタイ6:11)

新約聖書にカナの婚礼という話が出てきます。婚宴でワインが足りなくなってしまった。主イエスがその宴席ために水をワインに替えてくださった。そういう主イエスの起こした奇跡です。
古代教会の指導者アウグスティヌスがカナの婚礼について、このようなことを言っています。私たちは水が一瞬のうちにぶどう酒に変わると奇跡だと言って驚く。しかし、毎年、畑に雨が降ってぶどうが実り、その実を収穫して発行させワインに変化していくことを知っている。ここでも奇跡が起きているが、人々はそのことに気づかない。
とても面白い言葉だと思います。雨が降ってぶどうが実ること、それが発酵してワインになること。それが既に神の奇跡。しかし私たちはそれに気づかない。当たり前だと思っているからです。毎日食べるためのご飯があること、飲むための水があること、そのことは奇跡です。決して当たり前ではない。神様が私たちを養うために整えてくださっている。だからこそ、主イエスは「私たちに日ごとの糧を今日お与えください」と祈るように教えてくださいます。私たちに命を与える力をもっておられる方の憐れみに私たちがすがるために。
「主は天からのパンで彼らを満ち足らせた。主が岩を開かれると水がほとばしり川となって砂漠を流れた。これらのことは主が聖なることばを覚えておられたからである。」神様は砂漠でもパンを与え、水を川として流れさせる力をお持ちの方です。このお方の力と、そして慈しみを信じて、私たちも祈りましょう。「私たちに日ごとの糧を今日お与えください!」

2023年8月30日水曜日

2023年8月30日の聖句

あなたが大いなる業によって贖い出したあなたの民とあなたの嗣業を、主よ、どうか滅ぼさないでください。(申命記9:26)
私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。(ローマ8:32)

私たちは、神様のしてくださった大いなる業によって、神様ご自身のものとされた。それが私たちの出発点です。神は私たちを贖い、ご自分の嗣業としてくださいました。旧約の民は、出エジプトの出来事としてその御業を知っていました。現代を生きる私たちはそれよりももっとはっきりと、主イエス・キリストの出来事を通して神のものとされたことを知っています。私たちは神の民、神の嗣業。神の取り分であり、神のものです。
ときに、そのことがよく分からなくなってしまうこともあるかも知れません。神様は自分のことを忘れておられる、神様は結局は何もしてくれない。そう思い込んでしまう日も私たちにはあるでしょう。しかしそのようなときにこそ、私たちは聖書の御言葉を自分自身に向かって語りかけましょう。「私たちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないことがあるでしょうか。」
聖書が私たちに教えるのは、神が私たちのために何をしてくださったのかということです。私たちにどういう良いところがあるのかとか、私たちがどうやったら神様と取引することができるのかとか、そのようなことは聖書には書いてない。神が私たちをご自分のものとするために御子をくださったこと、ご自分の独り子の命によって私たちをご自分の嗣業としてくださったこと。その事実が、神様と私たちとの関係のすべてです。だからこそ、私たちはどのようなときにも神を信頼して良いのです。御子をくださった方は、他のあらゆることにおいても私たちに恵みをくださいます。必ずくださいます。今、私たちにそれが見えなかったとしても。静かに、ひっそりと、キリストの恵みは与えられている。御子をくださった方は、私たちのために弱さを引き受け、傷を負い、十字架の死を耐え忍ぶことで私たちを救ってくださいました。この方の恵みは、私たちの弱さの日に輝きます。
今こそ、恵みの時です。今こそ、救いの日です。主イエス・キリストの恵みが今日もあなたにありますように。

2023年8月29日火曜日

2023年8月29日の聖句

私は主、あなたの神。私はあなたの益となることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。(イザヤ48:17)
マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。(ルカ10:39)

今日の新約聖書の御言葉は、マリアと彼女の姉マルタ、そして主イエスとの話の一節です。マルタは主イエスとその一行をもてなすために忙しく立ち働いていました。ところが「マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた」ので、マルタは主に訴えます。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」すると主イエスがお答えになりました。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」
この話を聞くと、多くの人が思うのではないでしょうか。マルタがかわいそうだ。マルタの言うことはもっともだ。そして、確かにマリアは良いほうを選んだのかも知れないが、マルタも必要だ、と思いはしないでしょうか。私も、そう思ってしまいます。
しかし、主イエスは「必要なことは一つだけである」とおっしゃっています。マリアの態度もマルタの業も必要、とはおっしゃいませんでした。主は、マルタにもマリアと同じようにご自分の足元に座って、その話を聞いて欲しいと願っておられる。
今日の旧約の御言葉には「私は主、あなたの神。私はあなたの益となることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く」とあります。主が教えてくださり、主が導いてくださいます。だから、私たちにとって神の言葉は絶対になくてはならないのです。主が私たちを導いてくださるのであって、その逆ではない。主が語り、私たちは聞く。その関係がまず大事です。
主イエスさまは、私たちに命を与える福音を語り聞かせてくださいます。キリストの言葉、福音の言葉こそが私たちの救いそのものです。この救いを得させるために、主は私たちのところへ来てくださいました。キリストの言葉に聞きましょう。主イエスの福音に耳を傾けましょう。それが私たちにとって最も大切なことです。マリアにとっても、そしてマルタにとっても。主は私たちを招いておられます。ご自分の足元へ、ご自分の御言葉の中へと。

2023年8月28日月曜日

2023年8月28日の聖句

人を正しく治める者、神を畏れて治める者は、
太陽の輝き昇る朝の光。(サムエル下23:3~4)
(イエスの言葉)私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。(マタイ11:29)

私は柔和で心のへりくだった者。主イエスのこのお言葉は、私たちにすばらしい平安を与えます。福音そのものです。主イエスの柔和が私たちを救うのですから。主イエスさまが柔和なお方だから、私たちは救われました。怒りを旨とするお方だったら、どうして私たちの救いが実現しうるでしょうか。主イエスは柔和なお方でいてくださいます。しかも心のへりくだる方でいてくださいます。そうであるからこそ、私たちはキリストの柔和によって、へりくだってくださったキリストのお陰で救われたのです。
そこで、と言って主イエスはご自身の軛を負えとお命じになります。キリストの軛。少し前に、絆という言葉が一種のブームになりました。絆はもともとは動物をつなぎ止めるための縄のようなものが語源なのだそうです。その話を聞いたとき、軛とよく似ているなと思いました。軛は家畜に仕事をさせるために二頭をつなぐ棒のようなものです。絆も軛も、どちらも縛り付けるものです。不自由にします。ところがそこに、本来はなかった積極的な意味が見出されています。
ただ、「絆」は単なるブームに終わりました。美しい言葉で飾っても、結局は人のために何かをしたり、自分のしたいことよりも人とのつながりを優先する窮屈さに疲れてしまったのでしょう。コロナもあって、他人との適当な距離を保つことが優先されました。それでは「軛」はどうなのでしょうか。キリストがお命じになった軛は、私たちの生き方を変える言葉になっているのでしょうか。
キリストは、柔和な方です。その柔和な方が私たちにご自分の軛を負えと命じておられます。私たちがキリストと共に柔和に生きることへの招きです。キリストはそのためにへりくだってくださり、神の子としての自由をお捨てになりました。私たちに縛られることを受け入れてくださいました。愛と言えばとてもきれいな言葉になりますが、共に生きることには軛と呼ばなければ表現出来ないものがあるし、それこそキリストが負ってくださった重荷です。しかしそれは柔和なキリストの招きであり、私たちを解放する自由の喜びへの招きなのです。

2023年8月27日日曜日

2023/08/27の聖句

今週の聖句:
傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消さず(イザヤ42:3a)

今日の聖句:
あなたの神、主は、あなたの手の業すべてを祝福してくださった。(申命記2:7)
私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた。(ヨハネ1:16)

この方の満ち溢れる恵み。今日、神が私たちに注いでくださっているのは、ちっぽけな恵みではありません。私たちを満たすには全然足りない、けちくさい恵みではない。満ち溢れる恵みです。それだけではありません。「恵みの上にさらに恵みを与えられた」と言っています。「さらに」。私たちは、神様が備えてくださったこの事実に気づいているでしょうか。神様が与えてくださった溢れるほどの恵みに、さらに加えて与えられる恵みに、よく注意してみましょう。
柔らかく、注意深い心で、神様の恵みを捜して感謝する一日でありたいと願います。神さまが下さっている良いものは、私たちに必要な物ばかりですから、私たちには当たり前のように感じられて見過ごしてしまうことが多いのかも知れません。それは却って、神様がくださる恵みが私たちには必須だという事実の裏返しであるのだと思います。
キリストは「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心の火を消さず」にいてくださる、柔和な方です。それ自体が既に恵み深い事実です。主イエス・キリストのご配慮とお取り扱いに生かされる一週間。キリストが与えてくださった新しい日々は、もう、始まっています。

2023年8月26日土曜日

2023年8月26日の聖句

飢えた人にあなたのパンを裂き与えよ。(イザヤ書58:7)
善を行うことと、分かち合うことを忘れてはいけません。そのようないけにえを、神は喜ばれるのです。(ヘブライ13:16)

善を行うこと、そして分かち合うこと。神様はそれをご自分へのいけにえ、ささげ物として受け入れてくださる、と言われています。旧約の方でも「飢えた人にあなたのパンを裂き与えよ」とあります。思えば、聖書の本当にいろいろなところにこのような言葉が出てきます。それだけ、神様は私たちが隣人に愛を行うことは非常に大切なことだとお考えなのでしょう。
それはやはりほかの誰にも先立ってまず神様ご自身が憐れみに深く、私たちへの慈しみを決して曲げることのないお方であるからではないでしょうか。神は私たちのためにご自分の独り子をも与えてくださいました。神の子である方が私たちのために飢えてくださいました。貧しい人になってくださいました。
だから、私たちにとっては、他者と分かち合うというのは信仰の本質に関わることであるのだと思います。キリストがわたしにしてくださったように、わたしも隣人にする。それがキリストが私たちに求めておられることです。そして、そういう私たちの行いを、ご自分へのささげ物として喜んでくださるのです。
神様は、私たちの献げるものを独占なさいません。飢えた人が善いもので満たされることをお喜びになるし、貧しい人が安心して生活出来ることを望んでいてくださいます。私たちは神様の優しさで生かされている。だから、この神の優しさを映し出すものとなって欲しい。神が私たちに願っておられることです。

2023年8月25日金曜日

2023年8月25日の聖句

わたしは思った。
わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、
働きに報いてくださるのもわたしの神である。(イザヤ書49:4)
ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫たちは大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。(ヤコブ5:7)

「わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく力を使い果たした」。これは、私たち誰もが知っている思いです。骨折って労苦をするし、その労苦の実りが見えなくて空しくなり、力を使い果たして、うつろな思いしか残らない。私たちの誰もが知っている疲れです。空しさです。
その労苦の空しい思いを、今日の新約では農夫の譬えで語っています。農夫が畑を耕し、種を蒔いても雨が降らなければすべて無駄になってしまいます。雨は人間の力ではどうすることもできません。自分の力でどうこうすることのできないところで、自分の努力や労苦が水泡に帰すというのもまた私たちの誰もが知っていることです。
ですから農夫はひたすら雨を待ちます。初めの雨や後の雨が降るのをひたすら待ち望む。自分ではどうすることもできないので、耐え忍ぶしかありません。やがて雨が降れば、それによってすべてが報われる。ヤコブが言いたいのは農夫の話ではなくて、主を待ち望む私たちの話です。私たちの日々の労苦も、ただ耐え忍んで待ち望むことにかかっています。「主が来られる時まで耐え忍びなさい。」私たちは主イエス・キリストが再び来てくださるのを待ち望んで、主が来てくださる時のために今の労苦を耐え忍んでいます。主が来てくださることが私たちの希望だからです。
「(主は)再び来られて、生きている者と死んでいる者とを裁かれます」と、使徒信条に合わせて私たちは告白します。主イエスが再び来てくださる。私たちを裁かれる。今日の旧約の御言葉では「わたしを裁いてくださるのは主であり」と言っていました。私たちのすることがこの世においてどんなに空しい骨折りでしかなかったとしても、主がそれを覚え、裁いてくださいます。ですから私たちは世で報いを求めるのではなく、主の御前にいかなる意味を持つのかということに目を注ぎます。主が必ず来て、裁いてくださるから。主が私たちを救ってくださるから。そのことを信じて、今日も私たちのなすべき業をなすのです。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...