2023年8月25日金曜日

2023年8月25日の聖句

わたしは思った。
わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく力を使い果たした、と。
しかし、わたしを裁いてくださるのは主であり、
働きに報いてくださるのもわたしの神である。(イザヤ書49:4)
ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫たちは大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。(ヤコブ5:7)

「わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく力を使い果たした」。これは、私たち誰もが知っている思いです。骨折って労苦をするし、その労苦の実りが見えなくて空しくなり、力を使い果たして、うつろな思いしか残らない。私たちの誰もが知っている疲れです。空しさです。
その労苦の空しい思いを、今日の新約では農夫の譬えで語っています。農夫が畑を耕し、種を蒔いても雨が降らなければすべて無駄になってしまいます。雨は人間の力ではどうすることもできません。自分の力でどうこうすることのできないところで、自分の努力や労苦が水泡に帰すというのもまた私たちの誰もが知っていることです。
ですから農夫はひたすら雨を待ちます。初めの雨や後の雨が降るのをひたすら待ち望む。自分ではどうすることもできないので、耐え忍ぶしかありません。やがて雨が降れば、それによってすべてが報われる。ヤコブが言いたいのは農夫の話ではなくて、主を待ち望む私たちの話です。私たちの日々の労苦も、ただ耐え忍んで待ち望むことにかかっています。「主が来られる時まで耐え忍びなさい。」私たちは主イエス・キリストが再び来てくださるのを待ち望んで、主が来てくださる時のために今の労苦を耐え忍んでいます。主が来てくださることが私たちの希望だからです。
「(主は)再び来られて、生きている者と死んでいる者とを裁かれます」と、使徒信条に合わせて私たちは告白します。主イエスが再び来てくださる。私たちを裁かれる。今日の旧約の御言葉では「わたしを裁いてくださるのは主であり」と言っていました。私たちのすることがこの世においてどんなに空しい骨折りでしかなかったとしても、主がそれを覚え、裁いてくださいます。ですから私たちは世で報いを求めるのではなく、主の御前にいかなる意味を持つのかということに目を注ぎます。主が必ず来て、裁いてくださるから。主が私たちを救ってくださるから。そのことを信じて、今日も私たちのなすべき業をなすのです。

2024年5月9日の聖句

主は彼らに喜びを与えられた。(エズラ6:22) いつも喜んでいなさい。(1テサロニケ5:16) 復活の主日から40日目の今日は、主の昇天を祝う日として覚えられています。主イエス・キリストは、弟子たちの見ている前で天に昇って行かれたと聖書に書かれています。キリストは天に昇り、神の右...