2014年6月1日日曜日

使徒言行録1:3-11「約束」

私たちの姉妹教会、めぐみ教会の荒瀬牧彦牧師があるところでこのような物語を紹介しておられました。「郊外の家に住むその少年は、自分の部屋が大好きでした。その部屋には天窓があったのです。窓の真下においたベッドに寝転んで、空を眺めるのは彼の大切な時間であり、深い喜びを与えてくれることでした。季節によって、天気によって、空はいつも変化します。空を渡っていく鳥の群れを眺め、夜には月や星を仰ぐ時、心が広がっていくのを感じました。ところがある日、激しい台風が襲いました。翌朝、上を見あげると、天窓は木の枝や葉っぱですっかり覆われ、一筋の光も入ってきません。窓をふさいでいる者を取り除いて欲しいと両親に幾度も頼みましたが、他の箇所の補修で忙しくて、生活に支障のない天窓のことまでは手がまわりません。やがて少年は、親にせがむことをあきらめ、覆われた天窓に慣れていき、少し経つと空を眺めるというあの至上の喜びがあったことさえ忘れました。そして、空など眺めはしない忙しい大人になっていったのです。」
とても印象に残る話です。この少年の天窓を覆ってしまった木の枝や葉っぱというのは、一体何でしょうか。毎日嵐のように襲ってくる生活のための雑事やしなければならないたくさんの仕事、そういうところで覚える人間関係の悩み、あるいは肉体の病や痛み、そういうものは私たちが空を眺めるためのあの天窓を覆い尽くしてしまいます。生活を続けること自体はできるのです、天窓がふさがっていても。
しかし、やがて心は苦しくなり、忙しさを追いかけるだけでは心が失われてしまいます。天はイエス・キリストが昇っていかれた場所です。だから、雑事に追われた手を休めて、天を仰いでみてはいかがでしょうか。旧約聖書を開くと安息日を守ることを大切に教えています。安息日に自分の仕事を中断して、静かに神を仰いでみる。それは、何にも変えがたい幸いです。そのような安息日を取る余裕はないでしょうか?主イエスの周りにいた使徒たちもそう思っていたようです。すぐ目の前のことしか見えていませんでした。「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。自分のこと、自分たちのことしか目に入りません。心配や悩みが天窓を覆っているのです。自分で天窓の掃除することは難しい。悩んだままで良いのです。祈り始めれば、神の霊である聖霊の風が天窓を覆うゴミを吹き飛ばしてくださいます。だから少しだけ手を休めて祈りましょう。「天にまします我らの父よ」と。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...