先週の礼拝説教でキリスト者の詩人島崎光正さんの詩を一篇紹介しました。わたしは詩心に乏しい人間ですが、それでも心を打つ詩に出会うことがときどきあります。今日は八木重吉さんの詩を一編ご紹介したいと思います。
「万象」
人は人であり
草は草であり
松は松であり
椎は椎であり
おのおの栄えあるすがたをみせる
進歩というような言葉にだまされない
懸命に 無意識になるほど懸命に
各各自らを生きている
木と草と人と栄えを異にする
木はうごかず 人間はうごく
しかし うごかぬところへ行くためにうごくのだ
木と草には天国のおもかげがある
もううごかなくてもいいという
その事だけでも天国のおもかげをあらわしているといえる
「進歩というような言葉にだまされない」という言葉が心に残りました。「進歩」と言いながら、人々が「各各自ら生きる」ことをやめてしまって、人は人、草は草、松は松、椎は椎といった栄えを捨ててしまう。「うごく」ことにばかり進歩があると思い込んでいる。しかし、それは天国を忘れた姿ではないか、と問いかけられているように思います。結核のためにわずか30才で夭折した詩人の問いが突き刺さります。人と栄えを異にする自分を受け入れるのは存外しんどいこと。八木の詩は十字架のキリスト抜きには考えることができないものであると思います。神に造られた自分を全うする。そこには天国のおもかげさえ見えてくる。キリストと出会って、私も私らしくなれたのだと思います。