2015年4月5日日曜日

マルコによる福音書16:1-8「福音、それはハプニングだ!」


キリストの教会は毎週日曜日に集まって神を礼拝します。教会では日曜日を主の日とか主日などと呼ぶことがあります。「主(しゅ)」というのはイエス・キリストを指す言葉です。今日はイースター、十字架にかけられたイエス・キリストが復活したことを祝う日曜日です。しかし、主の日と私たちが呼ぶ日曜日の礼拝ではいつでもキリストの復活が祝われています。なぜ、キリスト教会は2000年間キリストの復活を祝い続けてきたのか。今日最後に歌う讃美歌は327番です。このように歌います。「すべての民よ、よろこべ、主イエスは死に勝ちませば、陰府のちからはや失せて、ひとのいのちかぎりなし。」イエスが死から復活し、死に勝った。死はもう負けてしまった。私たちの命ももはや死に打ち負かされてしまうことはない。それがキリスト教会の信仰です。昨年の夏にこの讃美歌を歌う葬儀に出席しました。「よろこべ」という歌詞で始まりますので、およそ葬儀らしくない歌です。しかし、死の姿を正しく見つめた葬式で会ったと思います。この葬式は加藤さゆり先生という一人の伝道者の死に際して行われました。かつて加藤先生はこのように言っておられたことがあります。「教会で行われます葬儀に連なりますと、すべてこの死の力も神の愛から私たちを切り離すことはできないのだということを、そのたびごとに確認させられるのではないかと思います。神さまの力を知っているものは、そこで神の力によって打ち破られた死の姿を正しく見ることができるのではないでしょうか。」普通、葬儀というのは人間がどんなにがんばって生きても最後は死に負けてしまうことを確認するプロセスであるかのように見られているのではないかと思います。しかし、教会の葬儀はそうではないのです。イエスの復活によって明らかになった神の力によって、死がもう負けてしまっている。死がトボトボ出ていく後ろ姿を見るものでしかない。しかし、そう言われたところで戸惑うでしょう、やはり、私たちはいずれ死ぬのですから。聖書を見ると、イエスの復活に最初に触れた女たちも正気を失うほどに恐れました。当然です。死人が復活するなど、人間の全く手の届かない話です。却って、私も必ず死ぬ、その現実の方が確かであると思い込んでしまうのです。しかし、神を信じる者にはもっと確かな現実があります。私は洗礼を受けている。「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。(ローマ6:4)」神を信じ洗礼を受けた者は、もう死に終わってしまいました。そして、新しい命に生きるのです。それは神がしてくださる奇跡としか言いようがない。この洗礼の命の奇跡に、あなたも招かれています。

2024年12月24日の聖句

あなたの神、主があなたに与えられた祝福に応じて、おのおの手ずから贈り物をしなければならない。(申命記16:17) (東方の博士たちは)ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2:11) 東方の博士たちが幼子イエスにお献げした三つの贈り物...