(私訳)
41 そして私に来させてください あなたの慈しみを 主よ
あなたの救いを あなたの仰せの通りに
42 そして私は答えましょう 私の恥辱に 言葉の
なぜなら 私は信頼した あなたの言葉において
43 そしてない 奪ってください 私の口から 言葉を 真実の まで とても
なぜなら あなたの裁きを 私は望んだ
44 そして私は保ちましょう あなたの律法を
絶えず 永遠に向けて そして永遠に
45 そして私は歩きましょう 広いところにおいて
なぜなら あなたの命令を 私は探した
46 そして私は話しましょう あなたの定めにおいて 前で 王の そしてない 私は恥じ入る
47 そして私は喜びましょう あなたの戒めにおいて それは わたしが愛したところのもの
48 そして私は上げましょう 私の両手を 向かって あなたの戒め それは 私が愛したところのもの
そして私は思い巡らしましょう あなたの掟において
この詩編の構成
この詩編は41から43節と44から48節の大きく二つに分けられる。それぞれ、42節と46節が軸になっている。どちらにも、「言葉の私の恥辱(「私を辱める言葉」といった意味であろう)」や「私は恥じ入りません」という同じ意味の言葉が置かれている。そして、その前後を挟む祈りや信仰告白で構成されている。また、43節1行目の最後の方にある「まで」という単語と44節に行目の「永遠に」は同じ語根字であり、かすがいの言葉になって前後の段落をつないでいる。
第Ⅰ段落(41から43節)
41節と43節の冒頭の動詞はどちらも二人称の願望形が使われている。即ち、祈りの言葉になっている。また、41節ではこの連で唯一「主」という神のお名前が登場し、全体の主題を提示する。「主よ、仰せの通りに慈しみと救いを来させて下さい」と祈る。主が御言葉の通りにしてくださることが救いなのだ。なぜなら、世界はいろいろな言葉で溢れている。だから、私を恥辱に陥れる言葉にも答えようとする。主の言葉を信頼しているからだ。真実の言葉を私の口から奪わないでくださいと願う。明らかに恥辱をもたらす言葉と対比している。ひたすら主の言葉に信頼する姿勢を示している。
第Ⅱ段落(44から48節)
この段落の冒頭の動詞は全て一人称の願望形であり、希望や決心を表す。つまり、信仰告白の形と言えよう。まず、最初の纏まりの44、45節では主の律法を永遠に保ちましょう、あなたの命令を探して広いところを歩きましょうと言う。ここでは時間的・空間的な広がりの中で主の言葉を求めると告白する。そして、47、48節では「私が愛したあなたの戒め」と二度繰り返し、主の言葉を喜び、手を上げて祈り、思い起こしますと告白する。この詩編の主題である主の言葉への愛が繰り返されている。そして、この愛は恥辱に陥ることがない。例え目の前にいるのが王のような権力者であったとしても、作者は主の定めを語り、恥じ入ることがない。主の言葉を愛しているからである。
祈りのために
ローマ1・16「私は福音を恥としない。」この福音とは「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みによって無償で義とされる(3・24)」こと。世界が礼賛するのは「できる」ことの誇り。教会はどうか?しかし、その誇りは取り除かれた。ただキリストを信じることによる救いは理性に反する。我らは主の福音の言葉を恥じることなくひたすら愛しているだろうか?
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