主イエスは譬え話の名人とよく言われます。確かにその通りです。この話もとてもインパクトに残る、分かりやすい話です。しかし、同時に思うのは、これは果たして本当に「分かりやすい」話なのでしょうか。このサマリア人は大きな愛の業に生きたわけではありません。福祉施設を作ったのでも、高邁な理想を体現したわけでもありません。無計画に起きた行きずりの愛の行いに生きただけの人です。それは、例えば電車で席を譲るようなことと似ているのかもしれません。小さな事です。しかし、疲れていて、席を譲れないこともあります。せっかく並んで座った席を空けたくないこともあります。若くたって今日は立てないと思うこともあります。こちらにも事情があるからです。祭司やレビ人だって悪人ではありません。彼らは怪我をした人を見て、道の向こう側を通っていきましたが、けが人を道に倒れさせておいて助けに来た人を襲うのは強盗の常套手段です。或いは、彼らは職業上、死体に触ってはいけませんでした。私たちは誰でもそれぞれの事情を抱えていますから、言いたくなるのです。「では、わたしの隣人とは誰ですか。」神を愛すること、隣人を愛すること、それは大切だ。それに反論はない。しかし、どこまでやれば良いのか。誰を愛せば良いのか。私が愛すべき人とはいったい誰のことなのか。それは、家族でしょうか。或いは、友だち、同胞、それとも利害関係がある人でしょうか。或いは、信仰を同じくする人のことか。疲れていても、よく知っている目上の方が電車にいたら、すぐに席を譲るでしょう。それでは、どこまですれば良いのか。際限なく全員にというのは現実的にできないので、そうやって範囲を決めるのです。しかし、そうやって愛すべき人とそうできなくても仕方ない人を区別していくと、とても惨めな気持ちになります。自分に愛が乏しいことに気づくからです。自分がどうしようもなく愛することから遠いことに気づかざるを得ないからです。そう考えると、この譬え話は分かりやすいとはいいにくいと思います。ストーリーとしては易しいですが、分かりやすくはありません。分かるというのは変わることだからです。主イエスの譬え話は私たちの常識からは外れています。行きずりの愛に生ききる人、敵であってもとっさに愛する人。理想であっても実際にいるのか?一般論としてではなく、この私はそのように生きられるのか?例え私がそう生きられないと思っても、主イエスは実際にそうしてくださいました。愛に乏しい惨めな私を救うために、わたしを見て、憐れんで、来てくださったのです。2デナリオンどころではない、ご自分のいのちまで下さいました。そして、主イエスはお前も私と同じ愛に生きられると招いておられます。キリストの愛から始めるならば、です。
2024年4月20日の聖句
私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...
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主イエス・キリストが、安息日になるといつものように会堂に入り、聖書を朗読なさいます。これだけでもう慰め深い言葉です。私たちは今主がそうなさったのと同じように、私たちの安息日である主の日、日曜日に教会堂に集まって礼拝を献げています。今日、ここに来られな...
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詩編29~30 主は洪水の上に座し 主は王として、とこしえに座した。 主がその民に力を与えてくださるように。 主がその民を祝福してくださるように 平安のうちに。(30:10~11) 川の水はかの平清盛にさえもどうにもならないと言わしめたと聞き及んだことがあります。私たち人間の...
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今日の通読箇所:ルカによる福音書7:24~50、ヨシュア記1 8、詩編124~125 ヨシュア記18; 「あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのを いつまでためらっているのか(3節)」。すでにイスラエルの五つ の部族には所有地が割り当てられましたが、 まだ...