4節にイエスが「彼と食事を共にしていたとき」という言葉があります。これはもともとは「塩を共にする」という字でできあがった言葉です。今回の説教のためにいろいろ勉強をして、この言葉がとても気に入ってしまいました。夏場に水だけを飲んでいても熱中症を防ぐことはできません。米や肉や野菜があっても、塩がなくては命をつなぐことはできません。塩を共にするという言葉のイメージが、私には、命を共にする場所、というふうに聞こえました。そういうところで、主イエスは、弟子たちに神の国について話されました。そうです。キリストが神の国が来たと私たちに告げてくださるのは、命を共にする生活の現場なのです。育児や介護の現場、ご飯の支度をする現場、毎日の仕事をし、共に食卓を囲む現場なのです。昨日近所を散歩しながら説教の準備をしました。思いめぐらしながら、「ここも神の御国なれば」という讃美歌が響いてきました。「ここも神の御国なれば、あめつち御歌を歌い交わし、岩に木々に、空に海に、たえなる御業ぞ、あらわれたる。」私はこの町で塩を食って生きています。この場所で神の国が来たと告げるキリストの福音を聞いています。皆さんそれぞれが今生きている場所にキリストが来られます。その場所で、キリストは言われます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして・・・地の果てに至るまで、私の証人となる。」ここに神の国が来た、と証言します。ここにキリストが来ておられる、と。この世界はそのような声を否定するでしょう。がんばって領土侵犯を防ごうとします。「神の国?そのようなものはアヤシイ宗教だ」、と。「神の愛?そのようなものは理想論だ、それならなぜ戦争が起こる?なぜ宗教家たちは戦争をし、テロをしている?」、と。しかし、私も問いたい。この世界は、死んだらそれまでよ教の虜になっていませんか?私だけは正しい教、高みの見物教を鵜呑みにしていませんか?それは全部宗教です。どうぞお願いします。そういう声に騙されないでください。そういう声が響いている現場にキリストが来てくださったのです。確かに、この世界には今なお戦争がやみません。私たちと同じ信仰に立つ者がその争いのある部分において重要な役割を果たしていることも否定できません。弟子たちもイエスに問いました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と。いつになったら、あなたが約束なさった神の国は来るのですか?いつになったら正しいことが行われるのですか?難しいのは、万人が納得する「正しさ」がどこにも見当たらないことです。ある人の正義は他の人の不正にならざるを得ない。国と国との戦争から夫婦げんかに至るまで、正義と正義のぶつかり合いです。どうしたら解決できるのでしょう。第一に言いたいのは、キリストが来て、神の国を宣言された以上、もうすでに神の国は来ています。教会を見てください。他の場所で出会ったら到底仲良しになんてならなかった者たちが食卓を囲んでいます。しかし、第二に、それはまだ完成していない。混乱の中にあります。私たちが今すべきこと、できることは、キリストの証人として生きることです。神の国そのものであるキリストの愛を証言します。そこに必ず救いがあるから。
2025年4月3日の聖句
わたしの民は二つの悪を行った。いのちの水の泉であるわたしを捨て、多くの水溜を自分たちのために掘ったのだ。水を溜めることのできない、壊れた水溜を。(エレミヤ2:13) (イエスの言葉)私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出...
-
さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
-
仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...
-
これほど深い絶望の言葉があるのか。神に見捨てられた。しかも「わたしの神」と呼ぶ方に。昨日までは親しい思いを抱いていたのか。今なお愛を込めて呼ぼうとしているのか。神は応えてくださらない。「主に頼んで救ってもらうがよい」などと誰に言われずとも自分が一番願っている。しかし、助けは来な...