2018年3月28日水曜日

2018年受難週祈祷会・水曜日

虐げる者から遠く離れよ、もはや恐れることはない。破壊する者から遠く離れよ、もはやそれがあなたに近づくことはない。(イザヤ書54:14)
イエスの言葉:わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネによる福音書14:27)

今朝の新約は、最後の晩餐での主イエスの長い説教の一節です。告別説教と言える言葉の中に出てきます。明日、イエス様は十字架にかけられ、弟子たちと共にいることができなくなってしまいます。続く28節では、「わたしは去っていく」と言っておられます。


それから約60年して、使徒ヨハネはこの夜のことを思い起こしながら福音書を書いたのでしょう。きっと、今の自分たちの教会とあの時の弟子たちとを重ねてみていたのではないかと思います。主イエスが十字架にかかり、弟子たちの側から去って行かれる。そのことと、今、自分たちの目の前に主がいてくださらないという現実が重なって見えていたのではないかと思うのです。しかも、あの後の弟子たちも、今の私たちも同じように厳しい現実の中で信仰生活を送っている。この告別説教を読んでいくと、例えば15:18からのところでは迫害の予告があります。主イエスを信じているがために苦しい目に遭わなくてはならない。それは、今、ヨハネ教会が、そして私たちが経験している現実そのものではないでしょうか。


どうして、主は今ここにいてくださらないのだろう。今、ここに、わたしのこの目に見えて、この手が触れるかたちで、どうしていてくださらないのだろう。この目で主のお顔を見て、この手で主の手に触れたらどんなに慰められることか…。十字架の後の弟子たちも、ヨハネの教会も、そして私たちも、何度願ったことでしょうか。主は、私たちがそういう悲しみを覚えることをよくご存知で、だから、特別な約束をしてくださいました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。心を騒がせるな。おびえるな。」キリストの平和が、私たちの内に宿ると言ってくださったのです。


日曜日に新しい牧師と伝道師が誕生しました。任職式の礼拝で、潮田健治先生が説教をしてくださいました。潮田先生に洗礼を授けた竹入牧師という方のお父様の話をしてくださいました。竹入高。この方も牧師です。太平洋戦争の時に京都の教会の牧師でした。当時、キリスト教会への弾圧は厳しいものがあり、竹入高牧師は信仰を貫き、特高警察に捕らえられ、拷問され、衰弱し死にいたるところで釈放され、その数日後に亡くなったそうです。戦中の教会は何人かの殉教者を出している。竹入高牧師はその一人です。わたしは、竹入牧師においても、この主イエスの言葉はなしになってはいないと信じます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。心を騒がせるな。おびえるな。」この言葉が真実であり続けたからこそ、息子さんもまた牧師になられたのでしょう。私たちを信仰のゆえに虐げる者は確かにいます。しかし、もはや恐れることはない。破壊する者がいます。しかし、主が私たちを救ってくださいます。彼らは例えこの命を奪うことはできたとしても、神が平和を与えるこの魂を損なうことはできないからです。



主は、どうしてここにいてくださらないのか。最初にそう言いました。しかし、ヨハネによる福音書はイエスの十字架で終わっているわけではありません。十字架にかけられたキリストは三日目に復活し、再び弟子たちのところへ来て、言ってくださいました。「あなたがたに平和があるように。」そして、彼らに息を吹きかけます。キリストの息。それは、聖霊のことです。聖霊は、今私たちの目には見えないけれど、私たちと共にいてくださいます。キリストの平和の福音を私たちに届けてくださいます。どのようなときにも消えてしまわない、確かな約束です。

2024年12月27日の聖句

遠く地の果てまで、すべてのものが我らの神の救いを見た。(詩編98:3) また、幸いなる希望、すなわち大いなる神であり、私たちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。(テトス2:13) すてきな言葉です。「幸いなる希望」と言っています。私たちにとって...