2019年6月13日木曜日

2019年6月13日(サムエル記下20〜21)

今日の通読箇所:使徒言行録9:1~22、サムエル記下20~21、ヨブ記24

サムエル記下20~21;
少しずつ、ダビデの生涯も晩年に近づきつつあるようです。ダビデは王国形成期の礎になった人物ですが、必ずしもいつでも平穏無事に安定していたわけではありません。アブシャロムの事件が解決した後にも、シェバという男がクーデターを起こそうとしました。ダビデは「我々にとって、ビクリの子シェバはアブシャロム以上に危険だ(20:6)」と、その危険性に気づいていました。将軍ヨアブが、シェバ追討に出たのです。
ヨアブはアベル・ベト・マアカという町でシェバを包囲しました。しかしその町に住むある知恵ある女がヨアブに訴えました。「私はイスラエルの中で平和を望む忠実な者の一人です。あなたは、イスラエルの中で母なる町を滅ぼそうとしておられます。なぜ、主の所有地を呑み込もうとなさるのですか(19節)」。それで、ヨアブはシェバの首だけを取れればいいと答え、彼女は知恵を用いてシェバの首を差し出し、町は厄災を逃れました。
これは単に知恵ある女の話のようにも聞こえますが、実はそれ以上の意味があると思います。申命記20:10~11に、「あなたが町を攻めようとして近づくときは、まず降伏を勧告しなさい。・・・。」という定めがあります。降伏に応じれば、抗戦してはならない。実は、彼女の知恵によってヨアブは律法を守ることになりました。
第21章のギブオン人とサウル一族を巡る出来事も、事柄の性質が似ていると思います。ギブオン人と言えば、かつてヨシュアの時代の誓いがあったのです。ヨシュア記第9章です。実はこの誓いはヨシュアたちがギブオン人の言っていることが本当かどうか調べることを怠って結ばれた、軽はずみなものでした。しかし、ダビデの誓いになって、その軽はずみな誓いの、誓いであるがゆえの重みが国にのしかかってきました。ダビデがギブオン人を殺していたので、「ダビデの時代に、三年続いて飢饉が襲っ(21:1)」てきたのです。ギブオン人は謝罪のしるしとしてサウル一族のうちの7人の命を要求します。ダビデは、ヨナタンとの誓いのゆえにメフィボシェトの命を惜しみましたが、ギブオン人との間の誓いを果たさざるをえませんでした。「誓い」の重みを考えさせられる事件です。
神の言葉は、時代を超えて意味を持ち続けます。そして、主の前で交わされた誓約も、時代を超えて重みを持ち続けています。それは、時とそして私たちの人間として考える範囲を超えたものであるのかもしれません。あまりに果てしなく、また、恐ろしい気もします。聖なる神様と、罪ある私たち人間との違いの恐ろしさではないでしょうか。この神がご自分の誓いのゆえに下さった方が独り子イエスであるからこそ、その救いは私たちにとって途方もなく大きな救いなのです。

2025年11月1日の聖句

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