今日の通読箇所:使徒言行録9:1~22、サムエル記下20~21、ヨブ記24
サムエル記下20~21;
少しずつ、ダビデの生涯も晩年に近づきつつあるようです。ダビデは王国形成期の礎になった人物ですが、必ずしもいつでも平穏無事に安定していたわけではありません。アブシャロムの事件が解決した後にも、シェバという男がクーデターを起こそうとしました。ダビデは「我々にとって、ビクリの子シェバはアブシャロム以上に危険だ(20:6)」と、その危険性に気づいていました。将軍ヨアブが、シェバ追討に出たのです。
ヨアブはアベル・ベト・マアカという町でシェバを包囲しました。しかしその町に住むある知恵ある女がヨアブに訴えました。「私はイスラエルの中で平和を望む忠実な者の一人です。あなたは、イスラエルの中で母なる町を滅ぼそうとしておられます。なぜ、主の所有地を呑み込もうとなさるのですか(19節)」。それで、ヨアブはシェバの首だけを取れればいいと答え、彼女は知恵を用いてシェバの首を差し出し、町は厄災を逃れました。
これは単に知恵ある女の話のようにも聞こえますが、実はそれ以上の意味があると思います。申命記20:10~11に、「あなたが町を攻めようとして近づくときは、まず降伏を勧告しなさい。・・・。」という定めがあります。降伏に応じれば、抗戦してはならない。実は、彼女の知恵によってヨアブは律法を守ることになりました。
第21章のギブオン人とサウル一族を巡る出来事も、事柄の性質が似ていると思います。ギブオン人と言えば、かつてヨシュアの時代の誓いがあったのです。ヨシュア記第9章です。実はこの誓いはヨシュアたちがギブオン人の言っていることが本当かどうか調べることを怠って結ばれた、軽はずみなものでした。しかし、ダビデの誓いになって、その軽はずみな誓いの、誓いであるがゆえの重みが国にのしかかってきました。ダビデがギブオン人を殺していたので、「ダビデの時代に、三年続いて飢饉が襲っ(21:1)」てきたのです。ギブオン人は謝罪のしるしとしてサウル一族のうちの7人の命を要求します。ダビデは、ヨナタンとの誓いのゆえにメフィボシェトの命を惜しみましたが、ギブオン人との間の誓いを果たさざるをえませんでした。「誓い」の重みを考えさせられる事件です。
神の言葉は、時代を超えて意味を持ち続けます。そして、主の前で交わされた誓約も、時代を超えて重みを持ち続けています。それは、時とそして私たちの人間として考える範囲を超えたものであるのかもしれません。あまりに果てしなく、また、恐ろしい気もします。聖なる神様と、罪ある私たち人間との違いの恐ろしさではないでしょうか。この神がご自分の誓いのゆえに下さった方が独り子イエスであるからこそ、その救いは私たちにとって途方もなく大きな救いなのです。
2024年12月23日の聖句
私は自分の背きを知っています。罪は絶えず私の前にあります。(詩編51:5) 私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、あらゆる不正から清めてくださいます。(1ヨハネ1:9) クリスマスにお生まれになった救い主は「イエス」と名付けられました。主の天使...
-
神によって私たちは力を振るいます。(詩編60:14) きょうだいたち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。(ローマ12:1) 今日の二つの御言葉がいっしょに掲げられているというのは本当に面白いなと思います。神によっ...
-
さがみ野教会の皆さま おはようございます。 気持ちのいい、爽やかな秋空の朝を迎えました。お変わりなくお過ごしでしょうか。 明日14日の日曜日の礼拝は成長感謝礼拝(子ども祝福式)です。 讃美歌や説教などが子ども向けのものとなり、大人と子どもとが共に神さまを礼拝し、子どもたちへの祝福...
-
仲間に向かって平和を口にするが心には悪意を抱いている「神に逆らう者」いる。しかし、私は主を呼び求めます、と告白する。「至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます。」新約の信仰に生きる者にとって、この至聖所はキリストがおられる「恵みの座」であり、我らは大胆にもそこに近...