今日の通読箇所:使徒言行録9:23~43、サムエル記下22、ヨブ記25~26
サムエル記下22;
ダビデの祈りの言葉、あるいは賛歌です。
「主はわが岩、わが城、私を救い出す方。わが神、わが大岩、私はそこに逃れる。わが盾、、わが救いの角、わが砦。私の逃げ場、救い主(2~3節)」。
まさに、ダビデはそのように信じ、そのように生きてきた人であったと思います。ダビデは何度もピンチに陥りました。自分を取り立てた主君が嫉妬のために自分を追い落とそうとし、子どもたちが憎しみ合い、息子に自分の立場を追われたこともあります。しかし、彼は決して清廉潔白な人ではありません。罪を犯しました。他人の妻を横取りし、夫を戦場に送ってわざと死ぬように仕向けました。もっとはっきり言えば、彼を殺しました。ダビデも、人並みに敵を憎みました。腹を立て、あるときには神に怒りました。ダビデは完全無欠からはほど遠かったし、失敗もたくさんありました。しかし、彼は大胆に神を信じ、大胆に罪を犯し、大胆に赦されました。それは、彼が本気で神を信じていたと言うことです。神を「私の逃げ場、救い主」と本気で信じていたのです。本気の信仰者であり、本気で目に見えない神を信じ、畏れていたことこそ、ダビデという人の生き方を定めたのです。それが、この人の魅力です。
「死の波が押し寄せ、滅びの河が私を脅かす。陰府の縄が取り囲み、死の罠が私を待ち受ける(5~6節)」。ハイデルベルク信仰問答の初めは、「生きているときにも、死ぬときにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか」ですが、この「死ぬ」という言葉は、死を迎える最期の瞬間を指す言葉ではありません。死にゆく長いプロセス全体を意味します。生きているときにも、死にゆくときにも、あなたの慰めになる事実とは一体何か、というのです。そのただ一つの慰めは、私が私自身のものではなく、生きているときにも死にゆくときにも、私の真実な救い主、イエス・キリストのものであることであります。ダビデも、また私たちも、この真実な救い主であり、慰め主でいてくださるイエス・キリストのものなのです。