2019年7月19日金曜日

2019年7月19日(歴代誌上15〜16)

今日の通読箇所:マタイによる福音書22、歴代誌上15~16、箴言14

歴代誌上15~16;
ダビデは改めて神の箱を迎えに出ていきました。前回の失敗から学び、「神の箱を担ぐのはレビ人でなければならない。彼らこそ、主の箱を担ぎ、とこしえに主に仕えるために主に選ばれた者である(15:2)」と言って、そのことを徹底します。これは、律法に定められたことを遵守し、主が定めたとおりに礼拝を献げるという姿勢を明確にしたということを意味します。
第15章を読むと、神の箱を迎えるためにダビデが形を整えることにどんなに腐心したのかがよく分かります。礼拝の形式を整えることに細心の注意を払いました。うっかりすると、礼拝の形を整えることに注意が向きすぎると形式的で心が伴わない礼拝になってしまうと考えがちです。確かに形だけを整えればいいというのはどこか間違っているのでしょうが、礼拝の「型」を整えることには、単純に形式主義と批判できない大切な面があると思います。ダビデは礼拝の形を整えながら、「イスラエルの長老や千人隊の長と共に行き、喜びのうちに、主の契約の箱をオベド・エドムの家から運び上げた(15:25)」と言われているとおりに、すばらしい主への喜びを献げました。礼拝は、主に献げる喜びが、その魂です。よく準備され整えられた形と、主の前でお献げする喜びが、車の両輪のようにして生き生きとした礼拝を形作ります。
第16章7節以下はダビデの感謝の祈りですが、詩編第105編、第96編、第106編がメドレーのように組み合わされています。これらの詩編の祈りは、私たちも、自分自身の祈りとして祈ることができる言葉です。詩編は祈りの宝庫、すばらしい祈祷集です。これもまた細心の注意を払って整えられた祈りの言葉であり、私たちが自分自身の信仰を込めて祈るとき、すばらしい喜びに導かれる宝です。今朝私たちはこのダビデの祈りを自分自身の祈りとして献げて、一日を始めたいと願います。

2026年6月16日の聖句

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