2019年8月4日日曜日

コリントの信徒への手紙一第15章1から11節「命の福音」


 福音の言葉。これが私たちを救います。コリント教会では実に様々なことが問題になっていました。性や結婚のこと、偶像に供えられた肉のこと、礼拝でのかぶり物、奴隷の主人が聖餐でも奴隷を軽んじていたこと、異言と預言という愛の問題、…。第15章はこの長い手紙のクライマックスです。最も大切なことです。それが他でもない、福音の言葉のことでした。教会は福音の言葉によっていきます。教会には疵があります。コリント教会と同じ間違いはきっとどこにでもあります。パウロは、そういうときに他の何でもなく福音の言葉を思い出してほしいと訴えます。教会は福音の言葉以外の何ものによっても建てられることがないからです。福音以外の何ものも教会の土台にはならない。そのことだけは間違えないでほしい。パウロはそう訴えます。
 福音によって、私たちは救われます。私は自分がとても弱い人間だと思うようになりました。ここでの「弱い」は誘惑に弱いとか人格的に欠陥があるということでもありますが、具体的な心身の弱さのことです。バランスを崩せば病気になるし、傷を負えば痛い。そういう肉体や心の脆さです。しかしそんな弱い私という存在の生活のより所は、福音の言葉なのです。
 その福音の言葉とはいかなる言葉なのか。キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、ケファや弟子たちに現れたこと。これがパウロの語る福音です。思えば、これらはすべて私たちの外で起きたことです。私がいい人なのか悪い人なのか、どういう心構えで生きてきたのか、恥ずかしくない人間なのか、コンプレックスはあるのか、どこに生きにくさを感じているのか、などといったこととは関係ありません。福音は、イエス・キリストが何をしたのかということしか語っていないのです。いや、精確に言えば「私」も登場しています。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと」。私は、本当は私の罪を知らないのだと思います。それがどんなに深くて絶望的なのかを。人にも見せられず、自分でも見たくないもの、見ない振りをしているもの。しかしそうやって自分で意識している部分など表面的で甘っちょろいものにすぎないのかもしれない。私は私の罪を知らない。しかし、キリストは私たちの罪のために死なれました。
 そのキリストが復活しました。この「復活した」という言葉は、復活して今も生きておられるというニュアンスを込めた表現をしています。キリストが復活したというのは過去のエピソードでも、そのような伝説でもない。今、この方が生きておられるということです。だから、ケファに、12人に、500人以上の兄弟たちに、ヤコブに「現れた」と言います。生きておられる方が出会ってくださった。そのお方が、「最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」とパウロは証言する。「私」がここにも登場しています。私の外で起きた福音の出来事が、私に向かって矢印を指して、ここまで迫ってくるのです。今生きておられるキリストが、この私にも出会ってくださった!
 「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」神の恵みによってというのは、自分でも自分の罪深さが分からないような罪の私のために、この方が死んで、その福音の矢印がこの私にも向けられていて、今生きておられるキリストがこの私に出会ってくださったというその恵みの事実を指しているのです。この福音はあなたのものです。キリストは、あなたの罪のために死なれました。そのキリストは葬られ、三日目に復活し、今生きておられます。あなたに、今日、出会うために。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...