今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二6、ネヘミヤ記10~11、雅歌8
ネヘミヤ記10~11;
ネヘミヤたちイスラエルの人々による、神様への誓約です。「これらすべてを顧みて、私たちは誓約し、書き留め、私たちの長、レビ人、祭司が捺印した(10:1)」。「この他の民、祭司、レビ人、門衛、詠唱者、神殿に仕える人々、その地の民から離れて神の律法のもとに集ったすべての人、彼らの妻、息子、娘、理解のできるすべての人は、彼らの同胞の有力者たちに賛同し、神の僕モーセを通して与えられた神の律法に従って歩み、私たちの神である主の戒めと法と掟をすべて守り行うことに同意し、誓約するものである(29,30節)」。そして、具体的に、この地の民と姻戚関係を結ばない、安息日を守る、ささげ物のことなどを神様の御前に誓い、署名しました。
一つには、自分たちの生きる基準は他の人と同じように振る舞うということではなく、神様が何を自分たちに求めているかという点におく、ということです。聖書に従うというただ一点で、他の民と区別された神の民が形成されていきます。
もう一つには、歴史的に見ると、エズラやネヘミヤの時代に確立した律法に従う信仰生活が、やがて数百年経って主イエスの時代にファリサイ派へとつながっていった、という事実もあります。ファリサイ派というとそれだけで「いやな奴ら」という先入観を持ってしまいがちですが、それは誤解に基づく偏見です。崩壊した神の民が神様の御前に悔い改め、新しい自分たちの生き方を聖書に求めた。真剣に聖書に従って生きた。それが彼らの出発点です。ただ、その自分たちの真剣さに囚われるあまりに違う生き方をする者への裁きの心に駆られてしまった、という点が問題だったのだと思います。私たちも、御言葉に真剣に生きたいと願います。しかし、私たちを救うのは自分の真剣さではありません。ただキリストの憐れみだけが私たちを救ってくださいます。だからこそ、憐れみ深いキリストに従うことを基準として、神様の御前に毎日の生活を営んでいきたいと願います。