今日の通読箇所:コリントの信徒への手紙二5、ネヘミヤ記9、雅歌7
ネヘミヤ記9;
「今日はあなたがたの神、主の聖なる日だ。嘆いたり、泣いたりしてはならない(8:9)」。そう言ってネヘミヤたちは神を礼拝しました。ごちそうを食べ、甘い飲み物を飲んで喜びました。主を喜び祝うことこそが神の民の力だからです。
こうして始めた礼拝で彼らがしたのは、次のとおりです。「イスラエルの人々は集まって断食し、粗布をまとい、土をかぶった。イスラエルの血筋の人々は立ち尽くし、すべての外国人をの関係を離れ、自分たちの罪と先祖の過ちを告白した(9:1~2)」。罪の告白の祈りをしたのです。そして「彼らは自分たちの場所に立ち、その日の四分の一は、彼らの神、主の律法の所を朗読し、また四分の一は、罪を告白し、彼らの神、主を礼拝した(3節)」。聖書を読み、それに導かれて罪を告白し、神様の御前に身をかがめて礼拝しました。
一見すると「嘆いたり、泣いたりしてはならない」という言葉と矛盾しているようにも見えますが、決して矛盾ではないと思います。ウェストミンスター小教理問答という本に、このような文章があります。「問87 命に至る悔い改めとは、何ですか。 答 命に至る悔い改めもとは、それによって罪人が、自分の罪を真に自覚し、キリストにおける神の憐れみを悟り、自分の罪を悲しみ、憎みつつ、新しい従順への十分な決意と努力をもって、罪から神に立ち帰る、そのような、救いに導く恵みの賜物です。」罪への嘆きは、それによって神の御許へ帰るための恵みの賜物です。ですから、ネヘミヤが言うところの嘆きとは、意味が違うのです。
さて、イスラエルの人々は長い罪の悔い改めの祈りをしていますが、それは先祖から続く長い歴史を解雇しながらの悔い改めでした。自分たちが生まれるよりも遙かに前から続く歴史のなかでの罪の悔い改めです。自分が生まれていないときのことだから知らない、とは言いませんでした。時間を越えた神の民の一員として、自分自身のこととして、先祖の罪をも神の御前に告白し、悔い改めました。私たちも、この社会に生きるキリスト者の一人として、同じ砕かれた心を持って悔い改めの恵みにあずかりたいという思いを新しくしました。
2024年12月26日の聖句
私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...
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