2020年1月19日日曜日

ルカによる福音書第10章25から37節「ともだち」

 新約聖書に登場するたくさんの単語の中で、私の特に好きな言葉が今朝登場します。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。」この「憐れむ」という言葉です。新約聖書が書かれたギリシア語ではスプランクニゾマイという言葉で、直訳すると「腸が動く」といった意味になります。このサマリア人が覚えた憐れみは、単に可哀想に思ったとか気の毒がったとか、そういうことではありません。自分の腸が動いて、痛んで、いてもたってもいられないほどに胸を焦がしたのです。
 新約聖書の中で「スプランクニゾマイ」というこの単語がどういうふうに使われているかを調べると、とても興味深い事が分かります。新約聖書では12回使われていますが、すべて福音書に登場します。イエスがなさった譬え話に登場すれば、神様に譬えられた人の思いとして使用されています。譬え以外では、イエスの思いとして、この単語は使われています。イエスや神が、傷ついた人や悲しむ人、失われた人を見て腸を痛め、憐れみに胸を焦がしている。そういう言葉です。
 今日の話はイエスの譬え話ですが、ここでの「憐れみ」はサマリア人の憐れみです。強盗に襲われて生き倒れている人を見て、腸が動いたのです。イエス・キリストは、このサマリア人のように私たちを憐れみます。私たちを見て、胸を焦がし、いてもたってもいられずに近寄ってきて介抱する。それがイエスの私たちへの態度です。
 この譬え話は、もともと、「隣人を自分のように愛しなさい」という聖書の言葉について、その隣人というのは一体誰のことか、私は誰を愛したらいいのか、という問いへのイエスからの答えとして語られたものです。私の隣人とは誰かと隣人の定義から出発するならば、愛すべき相手の線引きをすることになります。ところがこのサマリア人は、線を引くことなく、ただ憐れみに胸を焦がされて愛しました。行き倒れの人の隣人になりました。憐れみに突き動かされる人は、隣人を定義しません。ただ隣人になるだけです。
 主イエスは「行って、あなたも同じようにしなさい」と言われます。同じように私も痛んでいる人や悲しんでいる人の隣人になるには、わたし自身も隣人になってもらったという経験が必要なのではないでしょうか。なぜなら、私たちの愛は、小さくて限られたものに過ぎないからです。際限なく、誰をも愛し、すべての人の隣人になることは、理想ではあっても自分の力ではできません。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」という律法のとおりに生きようとしても、そうではない自分の現実をまざまざと見ざるを得ません。そんな私は、私を見て、憐れに思い、近寄ってきてくれるキリストの愛によらなければ、自分の力でこのような愛に生きることはできません。
 イエス・キリストは、私たちのところへ駈け寄ってきてくださいます。憐れんで、手を当ててくださいます。この愛に満ちた憐れみが、愛に生き得ない私を憐れみの人に変えるのです。

2024年4月16日の聖句

私の神である主は、私の闇を光となしてくださる。(詩編18:29) これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79) 主なる神さまの憐れみの心によって。これが...