マタイによる福音書9:1~17;
主イエスの権威を巡る一連の話の、ある言い方をすれば一つの頂点に達します。体が麻痺した人に、主イエスは言われます。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦された。」側にいた律法学者は「神を冒瀆している」と心の中で思いますが、主はそれは「悪いことを考えている」と言い、「人の子が地上で罪を許す権威を持っていることを知らせよう」とおっしゃいました。主イエス・キリストは、病を癒やす権威や悪霊に対する権威をお持ちの方ですが、それだけではなく神ご自身にしかない権威をお持ちの方です。罪を赦す権威を、主は持っておられるのです。だから、体の麻痺を癒やすことだっておできになる。「起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」これも権威ある言葉です。
この罪の赦しの権威が、主の権威の急所です。罪を赦すことのできる方として、主は御言葉を語られます。
この権威をもって、主はマタイに言われます。「私に従いなさい」と。マタイは徴税人でした。それで、徴税人や罪人を大勢招いて主と食卓を囲みました。それを見て、ファリサイ派の人々は言います。「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と難癖をつけます。つまり、主の罪の赦しの権威が理解できない、ということではないでしょうか。
主イエスは、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われます。病人会社を必要としているように、彼らは私を必要としている。徴税人や罪人が、罪の赦しの権威を持つ私を必要としている、と主は言われます。
さらに14節以下では断食の話になります。断食は、一つの言い方をすれば悔い改めのしるしであり、悔い改めて祈りに集中するということでしょう。罪の赦しを求める祈りです。主は、罪の赦しを求める祈りを、断食して嘆き悲しみながらするな、と言われます。あなたの罪を赦す権威を持ち、事実赦しの言葉を語る私がここにいるのだから、喜んで罪を悔い改めたら良い、今はそのようなときだ、と言われます。
主イエス・キリスト。この方が、私たちの花婿として来てくださいました。私たちは婚礼に臨む花嫁のように、喜んでこの方を迎え、この方が語りかけてくださる罪の赦しの宣言を喜んで聞き、主イエス・キリストを仰いで、この日を歩んでいきます。私たちの罪を赦してくださったキリストに、賛美。
主イエスの権威を巡る一連の話の、ある言い方をすれば一つの頂点に達します。体が麻痺した人に、主イエスは言われます。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦された。」側にいた律法学者は「神を冒瀆している」と心の中で思いますが、主はそれは「悪いことを考えている」と言い、「人の子が地上で罪を許す権威を持っていることを知らせよう」とおっしゃいました。主イエス・キリストは、病を癒やす権威や悪霊に対する権威をお持ちの方ですが、それだけではなく神ご自身にしかない権威をお持ちの方です。罪を赦す権威を、主は持っておられるのです。だから、体の麻痺を癒やすことだっておできになる。「起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」これも権威ある言葉です。
この罪の赦しの権威が、主の権威の急所です。罪を赦すことのできる方として、主は御言葉を語られます。
この権威をもって、主はマタイに言われます。「私に従いなさい」と。マタイは徴税人でした。それで、徴税人や罪人を大勢招いて主と食卓を囲みました。それを見て、ファリサイ派の人々は言います。「なぜ、あなたがたの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と難癖をつけます。つまり、主の罪の赦しの権威が理解できない、ということではないでしょうか。
主イエスは、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と言われます。病人会社を必要としているように、彼らは私を必要としている。徴税人や罪人が、罪の赦しの権威を持つ私を必要としている、と主は言われます。
さらに14節以下では断食の話になります。断食は、一つの言い方をすれば悔い改めのしるしであり、悔い改めて祈りに集中するということでしょう。罪の赦しを求める祈りです。主は、罪の赦しを求める祈りを、断食して嘆き悲しみながらするな、と言われます。あなたの罪を赦す権威を持ち、事実赦しの言葉を語る私がここにいるのだから、喜んで罪を悔い改めたら良い、今はそのようなときだ、と言われます。
主イエス・キリスト。この方が、私たちの花婿として来てくださいました。私たちは婚礼に臨む花嫁のように、喜んでこの方を迎え、この方が語りかけてくださる罪の赦しの宣言を喜んで聞き、主イエス・キリストを仰いで、この日を歩んでいきます。私たちの罪を赦してくださったキリストに、賛美。