2020年1月11日土曜日

2020年1月11日(マタイによる福音書9:18〜38)

マタイによる福音書9:18~38;
主イエスのもとにある指導者がやって来て言います。「私の娘がたった今死にました。でも、お出でになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう」、と。主イエスは彼についていきます。するとそこに12年間出血が止まらずに苦しんでいた女が近寄り、イエスの衣の裾に触れます。「この方の衣に触れさえすれば直して頂ける」と信じたからです。
その後、主イエスは指導者の家の娘のところへ行きます。主は「少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言いますが、人々は嘲笑いました。しかし主は少女の手を取り、起き上がらせたのです。人々は信じませんでしたが、主は彼女を死から起こしてくださいました。
さらに、二人の盲人と出会います。彼らは「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と叫び、イエスは彼らに「私にできると信じるか」と問われました。「はい、主よ」と彼らは答え、主は彼らの目に触れて「あなたがたの信仰のとおりになれ」と言い、その目は見えるようになりました。
そして、悪霊に取りつかれて口の利けない人を、人々はイエスの下へ連れてきた。主は悪霊を追い出し、この人はものを言い始めます。群衆は驚きますが、ファリサイ派の人々は「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言い、イエスを信じませんでした。
このように見ると、この一連の物語は、信仰をモチーフにしているように思います。前のとこまでで示されたイエスの権威を信じる信仰です。主イエスが告げる天の国は、主を信じる者のところにすでに始まっています。キリストが始めてくださっています。それを拒むことなく信じてほしいと、主は私たちを招いておられます。
しかし、ファリサイ派に代表されるように、なお私たちは不信仰に浸りきっているので、キリストの権威を悪霊の権威と見間違えてしまいます。心が頑なだからです。35節以下に登場している群衆は、不信仰の世界であえぎ、苦しんでいる人間の姿そのものなのではないでしょうか。主が彼らを見て「深く憐れまれた」と記されているとおり、私たちにはキリストの憐れみが必要です。私たちを不信仰から解き放ち、キリストとその御言葉を権威(私たちを天の国に招き入れる権威)を受け入れる信仰を、どうか私にもくださいと祈りつつ、今日の日を歩んでいきましょう。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...