2020年1月12日日曜日

ヨハネによる福音書第2章13から22節「新しくなった祈りの家」

 「わたしの父の家」と、主イエスは神殿を呼びます。わたしの父の家。神殿は主イエスが「父」と呼ぶ神の家であるはずだ、と言われるのです。すでにヨハネによる福音書では、主イエスについて「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と記していました。独り子である方が、神殿を「父の家」と呼び、その家への熱意をあらわにしておられます。怒っておられます。父の家、父なる神さまにお目にかかることのできるはずの家が、そうではなくなってしまっているという現実に。そしてそれを生み出す人間の営みに怒りを燃やしておられます。
 キリスト者の詩人の八木重吉の短い詩に「神様 あなたに会いたくなった」というものがあります。日付がないのでいつ詠んでものかは分かりません。結核の闘病中でしょうか。あるいはまだ若い23歳の頃、スペイン風邪のための数ヶ月の闘病が明けた頃にこのような詩も詠みました。「おんちち うえさま/おんちち うえさま/と とのうるなり」。重吉は、父なる神を呼び、このお方に会うことに焦がれて、30年の生涯を歩んだのだと思います。
 父に会いたい、神に会いたい。私たちもそう願って、礼拝への道を上ってきました。それなのに、肝心の父の家が父の家でなくなってしまっている。主は憤ります。主イエスはそこで牛や羊や鳩を売っていた者を追い出し、両替商の金を撒き散らしました。どちらも、当時礼拝のために必要と考えられていた商売です。特段に私腹を肥やしていた様子も見受けられません。一体何にそこまで怒りを覚えられたのか。私はこれを読んで、ユージン・ピーターソンという米国の神学者の書いた『牧会者の神学』という本を思い出しました。これもまた怒りの書です。教会の営みを宗教商売に貶めている牧師たちへの怒りです。牧師たちは自分たちの召されたポストを放棄して経営者に成り下がっていると告発します。本来彼らが神に召されたのは、祈り、聖書を読むこと、霊的指導であったはずなのに、それを辞めたのはいかなることかと叫んでいます。私は二人の告発が重なるような気がして、苦しい気持ちになりました。
 キリストはこのように父の家を思う熱意に生き、その熱意に食い尽くされて死にます。キリストが十字架にかけられたのはなぜなのか?その熱意が本物だったからです。神殿を、まことにその名にふさわしい父の家、祈りの家として再建しようと、主イエスは本気でした。だから怒りました。しかし、その熱意と本気は、しばしば惰性や安心感で生きている者には邪魔になります。いつもの営みをしていた方が楽です。決まった言葉で決まった宗教的振る舞いを繰り返す方が、する方も見る方も安全です。主イエスは危険です。私たちにいつもチャレンジしてきますから。本気で神の前に立たせようとなさいますから。そんな主イエスは、私たちのテリトリーの外、十字架へ追い出されました。しかし、主は言われます。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」この神殿というのは、主のお体の神殿のこと。ご自身の復活のことを言われました。私たちが父と会える祈りの家を、主イエスは御自分の復活の体によって作ってくださいました。私たちを父に会わせるために。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...