2020年1月12日日曜日

2020年1月12日(マタイによる福音書10:1~23)

マタイによる福音書10:1~23;
昨日の最後のところで、主イエスは群衆の羊飼いのいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている様子を御覧になって、深く憐れまれました。弟子たちに言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」そういってから、「イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった」のです。それは「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いを癒やすためであった」。収穫のために働き手を送ってくださるように祈れとお命じになった方ご自身が、働き手を立たせてくださるのです。
こうして、12人を派遣なさいます。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死者を生き返らせ、規定の病を患っている人を清め、悪霊を追い出しなさい」と、命じて。
その派遣される彼らの姿は、少しびっくりしてしまいます。「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れてはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持っていってはならない。」これは、どう考えても旅支度とは言えません。同じ町内に出かける格好です。しかし、実際に弟子たちが遣わされるのは同じ町内とは限らない。「イスラエルの家の失われた羊のところ」ならば、どこへでも向かっていきます。その旅のために、お金や着替えを持っていくな、と主は言われます。なぜなら、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」からです。行った町で出会う人に養ってもらえ、と主は弟子たちにお命じになるのです。あまりに無防備です。養ってもらうというのは、弱い立場になることです。弟子たちの立場の弱さは、14節にも象徴的に表現されています。「あなたがたを受け入れず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいれば、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい。」受け入れてもらえなくても、石を投げるのでも砂をたたきつけるのでもない。ただそっと足の埃を払うだけ、それをしるしとするだけです。主は、天の国の到来という福音を託す弟子たちを、弱い者としてお遣わしになりました。
ですから、弟子は迫害にもさらされます。その迫害に力尽くで抵抗することは、期待されていません。ただ「蛇のように賢く、鳩のように無垢」に、十分に用心する。どういうことがあっても抵抗できる理論武装の準備も必要ありません。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。言うべきことは、その時に示される。というのは、語るのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる父の霊だからである。」主は、弟子を徹底して弱い者として、ただ神様にしかすがり得ない者として遣わされます。「人の子が来る」のをひたすら待ち望み、主に与えられた使命を、ただ主に頼ることによって進める。それが、キリストの弟子の歩む道です。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...