2020年2月28日金曜日

2020年2月28日(ローマの信徒への手紙15:14〜33)

ローマの信徒への手紙15:14~33;
「こういうわけで、私はあなたがたのところに行くことを、何度も妨げられてきました。しかし今は、もうこの地方に働く場所がなく、その上、あなた方のところへ行きたいと長年、切望してきたので、イスパニアへ行くとき、それをかなえたいと思います。」
パウロはローマを訪問したいとずっと願ってきましたが、なかなかそれは叶えられませんでした。パウロは更にその先、イスパニア、つまりスペインにまで行きたいと考えていました。地中海世界の果てということになります。ローマに行きたかったけどなかなかいけなかった。そこで、更にその先のイスパニアにまで行く。だから、その途上でローマを訪問しよう、と言うのです。実際にはパウロがイスパニアに行くことはできませんでした。しかしローマには訪れました。しかしそれはパウロが思っても見なかった形で、つまり囚人としてローマまで護送されるという形で行くことになります。思わぬ仕方で、パウロが異邦人に福音を宣べ伝える働きが進んでいったのでした。
彼がローマに行きたいと願ったのは、神様が自分をそこに異邦人へ遣わしたと確信していたからです。「それは、私が神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。」パウロは自分を異邦人のための祭司だ、と言います。
去年使っていた通読表を使って今年も旧新訳聖書を通読していると、今ちょうどレビ記を呼んでいることになります。レビ記は祭司の作法について丁寧に触れています。レビ記が記す祭司の振る舞いは、聖なるものと穢れたものとと分ける、ということが基本です。食べ物から始まって、それは日常のありとあらゆることに及びます。そして日常生活を区別し「穢れ」を可視化することで、「聖」とは何かを始めて知ることができます。白っぽいクリーム色と真っ白の違いは、並べて区別することでしか分からないのと同じです。ですから、祭司の基本的な作業は「区別」にあります。
しかし異邦人のための祭司となったパウロは、それまでは穢れた存在と考えられてきた異邦人と、聖なる民と考えられてきたユダヤ人との区別をなくしました。聖なる方はただお一人、キリストだけ。キリストによって示された聖なる愛だけが、聖い。その聖さは、穢れた罪人である私たち(異邦人もユダヤ人も)を愛してくださるところで発揮されました。誰もが、キリストのゆえに、神に近づくことができます。キリストは、人間的なすべての区別を乗り越えて、神の聖なる愛を私たちの穢れの中で輝かせるのです。パウロも彼に続く教会も、そのために仕えています。

2024年4月19日の聖句

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