2020年2月4日火曜日

2020年2月4日(マタイによる福音書26:1~30)

マタイによる福音書26:1~30;
主イエスは弟子たちと一緒に過越の食卓に着きました。主がパンとぶどう酒を弟子たちに与え、一同がそれを食べました。主はそのパンを「取って食べなさい。これは私の体である」と言って与えました。また杯についても「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される、私の契約の血である」と言ってお与えになりました。彼らはその食事を頂き、そして「賛美の歌を歌ってから、オリーブ山へ出かけた」と聖書は伝えています。
この最後の賛美の歌ですが、恐らく詩編第113編から第118編であろうと考えられています。過越祭のときに歌われた詩編であったからです。このように歌っています。「私たちの神、主のような方がほかにあろうか。天にあっても地にあっても、低きに下って御覧になる方。弱い人を塵の中から起こし、貧しい人を芥の中から高く上げ、高貴な人々と共に、民の中の高貴な人々と共に座らせてくださる。」
神様は天の高い御座に座っておられる。いや、天でさえも神様を納めることなどできません。そのようなお方が、地のいちばん低いところに下ってきて、塵や芥の中にうずくまっている人を起こし、高く上げてくださる。このすばらしい詩編は、主イエス・キリストのなさったことそのものです。
あの過越の食卓にはイエスを裏切ろうとしていたユダもいました。当初イエスを十字架につけた祭司長や民の長老たちは、「祭りの間はやめておこう」と言っていました。しかしユダがイエスを引き渡したので、祭りの間にイエスは十字架につけられてしまいました。そんなユダを、イエスはこの食卓に加えてくださっています。それは、まるでユダその人のためにご自分の体を裂き、血を流すとおっしゃっているかのようです。主イエスは神の独り子でありながら、低きに下って御覧になる方。弱い人を塵の中から起こしてくださる方なのです。
ですから、この方の死こそが私たちの救いです。最も低く下り、十字架の死にさえ下りきってくださいました。ユダと私たちの身代わりとして。それで、ベタニアの一人の女がしたこと、イエスに油を注いだあの出来事は、美しいのです。イエスの死の記念だから。イエスの十字架の記念だから。「この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」と主が言われるとおり、私たちも彼女のした記念に従って、イエス・キリストの十字架の死を仰いでいます。

2024年4月20日の聖句

私は必ずあなたを助け出す。剣に倒れることはない。あなたの命はあなたの戦利品となる。あなたが私を信頼したからであるーー主の仰せ。(エレミヤ39:18) イエスはその犯罪人に、「よく言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23:43) 主イエスが十字架の上で...