2020年2月5日水曜日

2020年2月5日(マタイによる福音書26:31~46)

マタイによる福音書26:31~46;
マタイが私たちに伝えるゲツセマネで祈る主イエスのお姿は、行き来する主イエス、というものであると思います。
主イエスは弟子たちと共にゲツセマネまで来て、ペトロとゼベダイの二人の子(ヤコブとヨハネ)だけを伴って更に奥に行きます。そして三人に「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、私と共に目を覚ましていなさい」と言って、一人で更に奥に行きました。そこでうつ伏せになり、祈ったのです。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」と。
そして、その後、弟子たちの所へ戻ってこられました。彼らは眠っていました。ペトロに「誘惑に陥らぬように、目を覚まして祈っていなさい」と言って、二度目に向こうへ行って祈る。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っています。そこで、彼らを離れてまた向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈ります。そして、弟子たちの所へ戻って来て言われました。「まだ眠っているのか。休んでいるのか」と。
マタイが伝えている記事を読むと、マタイはイエスが祈り、弟子のところへ戻って来て、彼らを起こし、そしてまた祈りに行ったと、戻ってくることと行くこととの繰り返しを丁寧に一回一回描いています。イエスは祈り、帰って、また祈り、帰って、また祈り、帰ってこられた。行き来するイエスのお姿をマタイは私たちに伝えています。
そしてそれがこの時だけではなく、イエスという方がなさってきたことです。イエスは父なる神と私たちとの間を行き来して、私たちの祈りを神に届けてくださいます。私たちは愚かにも主と共に目を覚ましていることができず、眠ってしまいます。もちろんここで行っている「眠る」というのは、信仰が眠っているということです。祈ることをやめてしまうことです。私たちはその意味ですぐに寝てしまいます。主ご自身は苦しみ悩みながら祈っているのに!しかも、ご自分がかけられる十字架を前にして苦しんでおられるのに!私たちの信仰は眠ってしまっているけれど、キリストは神の御許から私たちのところにまで来て、私たちを起こしてくださいます。信仰を呼び覚ましてくださいます。私たちも、主と共に祈る者となるために。
ペトロは、主イエスに「あなたは三度、私を知らないというだろう」と言われ、その通りになってしまいました。このペトロの信仰を呼び覚ますために、主イエスは神と私たちとの間を行き来しておられます。そして、私たちのために。私たちのこの祈りの時間は、主イエス・キリストに支えられています。

2024年4月16日の聖句

私の神である主は、私の闇を光となしてくださる。(詩編18:29) これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79) 主なる神さまの憐れみの心によって。これが...