2020年3月12日木曜日

2020年3月12日(ヘブライ人への手紙11:1〜22)

ヘブライ人への手紙11:1~22;
「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えない者を確証するものです。昔の人たちは信仰のゆえに賞賛されました。」
新共同訳聖書では「信仰とは、望んでいる事柄を確信し・・・」となっていましたが、新しい聖書協会共同訳では「信仰とは、望んでいる事柄の実質」となっています。随分と大きな訳の変更のようです。ここで「確信」とか「実質」と訳されている言葉は、このヘブライ人への手紙では1:3「御子は神の栄光の輝きであり、神の本質の現れであって」の「本質」、また3:14「私たちは、初めの確信を終わりまでしっかり保つなら、キリストにあずかる者となるのです」の「確信」として登場していました。それぞれの翻訳から分かるとおり、「確信」の意味も「実質」の意味も、両方備えている単語と言えるようです。
従来の「信仰とは、望んでいる事柄を確信し」は親しんできた良い訳ですが、新しい訳も魅力的です。「信仰とは、望んでいる事柄の実質。」希望の本質は信仰だ、ということでしょう。確かにその通りなのだと思います。
信仰とは、望んでいる事柄の本質。それを例示するために、たくさんの信仰者たちの名前を挙げていきます。アベル、エノク、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ。彼らは皆神を信じていました。神様にある望みの本質は、この世界が始まったその時から、目に見えない事柄を確証し、信じるということにあります。「ノアはまだ見ていない事柄についてお告げを受けたとき、畏れかしこみながら、その家族を救うために箱舟を造り・・・」。彼は信仰によって、まだ見ていないことに望みをかけて生きました。アブラハムも、サラも、他の人も同じです。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束のものは手にはしませんでしたが、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。」信仰者は、いつでも、どんなときにでも、望みを抱いています。そこに信仰の本質があるからです。
だから、彼らは皆「約束されたものは手にしませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、滞在者であることを告白したのです。彼らはこのように言うことで、自分の故郷を求めていることを表明しているのです。」彼らは、自分の生まれ故郷ではなく天の故郷にあこがれていたからです。その故郷への帰還に、望みを抱いていました。
私たちの日常の営みの弱さを思い知らされる日々が続いています。確かだと思っていたものも、何かがあれば当たり前ではなくなってしまいます。しかし、私たちの目指す故郷は天にあります。神を信じるものに天の故郷を目指す望みが消えてしまうことは、ないのです。

2024年12月26日の聖句

私が主、彼と共にいる彼らの神であり、彼らがわが民イスラエルの家であることを、彼らは知るようになるーー主なる神の仰せ。(エゼキエル34:30) 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。(ルカ2:11) 天使が羊飼いたちに向かって宣言し...