2020年5月18日月曜日

2020年5月18日(ルカによる福音書17)

ルカによる福音書17
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスはお答えになった。『神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。「ここにある」とか、「あそこにある」と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの中にあるからだ。』」
ファリサイ派の人々が『神の国はいつ来るのか』と尋ねたというのは、神がローマの支配を打ち破って私たちを救ってくださる日はいつ来るのか、この世界の終わりの時、神の裁きの日はいつ来るのか、という意味であると思います。私たちも、同じように聞きたいことではないでしょうか。神様はいつ私たちを救ってくださるのか、いつまで待てばいいのか。私たち自身の問いなのではないでしょうか。
主イエスは言われます。「神の国は、観察できるようなしかたでは来ない。」私たちが創造するようなものとは違う、と主イエスは言われます。ローマが倒されたとか、病気がなくなったとか、そういうような客観的に観察できるしかたで神の国が来るというのではない。「稲妻がひらめいて、大空の端から端へと輝くように、人の子もその日に現れるからである。」人の子、神の国を実現する救い主は、私たちには思いがけないしかたでやってくる。稲妻の輝きのように。私たちにはそれを支配することはできない。では、どうやって救い主が来て、神の国を実現するのか?
「しかし、人の子はまず多くの苦しみを受け、今の時代から排斥されなければならない。」驚くべき言葉です。ファリサイ派の人が期待していた答え、そして私たちが期待するのは、悪を打ち破り、すべての苦難を解決する力強い救いではないでしょうか。奇跡的にコロナが解決したり、神様を信じていれば病気にならなかったり、そういう救いの証拠を期待してしまいます。ところが、神の国を実現する救い主の到来は、今の時代から排斥され、苦しみを受けるというしかたで起きるのだ、と主イエスは言われます。救い主は、苦しみの中におられるのです。
苦しむ救い主によってもたらされる神の国は、ここにあるとかあそこにあると言えるものではない。「実に、神の国はあなたがたの中にある」と主は言われます。神の国は、私たちの間にある。救い主の苦しみによって救われた私たちの間に、神の国が来ている。それが、教会です。
私たちは今離れています。共同体にいられないことは、孤独なことだと実感します。だからこそ、私たちの救い主が苦しまれた方であるということは本当に福音です。主イエス・キリストは、今私たちの目には見えません。しかし、私たちの間にいてくださり、私たちの間に神の国を実現している。目には見えないキリストの教会につながっていることを信じて、キリストを信じる共同体の一員として、今日の日を歩んでいきましょう。

2024年4月24日の聖句

恐れるな、もはや恥を受けることはないから。(イザヤ54:4) 天使は女たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(マタイ28:5~6) 「あの方は、ここにはおられない。」最初のイースターの朝...