2020年5月19日火曜日

2020年5月19日(ルカによる福音書18:1〜17)

ルカによる福音書18:1~17
「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私はほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦淫する者でなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください。』」
ファリサイ派の人の祈りは、このように読むといかにも傲慢でうぬぼれた祈りのように見えます。しかし、そう思った途端に私たちもこのように祈ってしまうかも知れません。「神様、私がこのファリサイ派の人のようでないことを感謝します」、と・・・。
主イエスはこの譬え話を「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」に対して話されました。自分の正しさへのうぬぼれと、他人を見下すということとは、切っても切れない裏表の関係です。あのファリサイ派の人の祈りは「私は他の人たちのように・・・ではなく」、「また、この徴税人のような者でないことを・・・」と言っている。他の人よりも素晴らしい私であることをありがとうございますと言います。祈りながら、結局自分のことしか見ようとしていない。
もう一人の徴税人は、ただ「神様、罪人の私を憐れんでください」とだけ言っています。自分のことを見ようとしていません。自分が惨めだからです。実際に、徴税人としての権威を笠に着て酷いことをしてきたのでしょう。今、聖書を読む私たちの徴税人のイメージと当時のそれとは相当違ったはずです。反社会的な存在だと見なされていたに違いない。しかし、彼は自分の惨めさに埋没するのでもなく、ただ神様だけを求めます。「神様、罪人の私を憐れんでください」と。
祈りというのは、自分の外を見ることです。自分の立派さや信仰深さ、あるいは惨めさや至らなさについても、そのようなことに目を向けません。他の人と比べてよい自分や悪い自分を見ようとしない。ただ、神様だけを見上げます。いや、見上げることもできず、うずくまったままにただ神様を呼び求める。それが、祈りです。
今朝、私たちも同じように祈りましょう。今朝の祈りはたった一言で良いのです。「神様、罪人の私を憐れんでください。」ただこの一言だけを今朝の私たちの祈りといたしましょう。

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6) 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14) 「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちの...