2020年10月6日火曜日

2020年10月6日(ヤコブの手紙2)

ヤコブの手紙2
「私の愛するきょうだいたち、よく聞きなさい。神は、世の貧しい人を選んで信仰に富ませ、ご自分を愛する者に約束された御国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。ところが、あなたがたは貧しい人を辱めたのです。」

ヤコブはとても具体的な例を挙げながら、行いのない信仰がそもそも信仰として成り立っていないことを指摘しています。教会に金持ちと貧しい者が来たときに、もしも金持ちを厚遇して貧しい者を冷遇するなら、貧しい者を辱めていることに他ならず、それは神の御心に背くことに他ならない。ヤコブはそう指摘します。私たちにもよく分かることです。私たちの教会に全く同じ信頼か医者が来たときのことを想像するのは簡単です。私たちの対応は相手によって変わってしまうのでしょうか。例えば貧しい人ではなくて、鼻にピアスをした青年だったら?性的マイノリティだったら?生活保護で生活をしているはずなのに、あまり慎ましい暮らしをしているようには見えない人だったら?もしも彼ら彼女らを軽んじる気持ちが生まれてくるのだとしたら、私たちの判断基準は神様の御心ではなく、この世の物差しということになってしまいます。
神様を信じるというのは、現実的な生活の話です。「私のきょうだいたち、『私には信仰がある』と言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、その人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟か姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたの誰かが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖まりなさい。存分に食べなさい』と言いながら、体に必要なものを与えないなら、何の役に立つでしょうか。同じように、信仰もまた、行いが伴わなければ、それだけでは死んだものです。」これもまた私たちにもよく分かる話ですし、それだけに痛い話でもあります。恐らく誰もが身に覚えがあるから。そして、痛いのはこの指摘が真実を突いているからではないでしょうか。キリストは、私たちが実際的な愛に生きることを求めておられます。キリストこそ、私たちへの実際的な愛に生きぬいてくださったからです。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...