2020年10月5日月曜日

2020年10月5日(ヤコブの手紙1)

ヤコブの手紙1
「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの人であってはなりません。御言葉を聞いても行わない者がいれば、その人は、自分の生まれつきの顔を鏡で映して見る人に似ています。自分を映して見ても、そこを立ち去ると、どのようであったかをすぐに忘れてしまうからです。しかし、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れずにいる人は、聞いても忘れてしまう人ではなく、行う人になります。このような人は、その行いによって幸いな者となるのです。」
これまで読んできた手紙は、殆どが使徒パウロによるものでした。3月に読んだヘブライ人への手紙は恐らく違う人が書いたものですが、それ以外はパウロの手紙と伝えられています。しかし、今日からは別の執筆者の手紙を読みます。まず、ヤコブの手紙です。この手紙は書いた人の名前だけではなく、その内容も、パウロの手紙とはかなり違う印象を受けます。パウロは私たちが自分の行いに頼ることを拒み、ただ神の恵みによってのみ救われると言うことを強調しました。後の教会はパウロが語ったこのことを「信仰義認」と呼びました。ただ信仰のみによって、私たちは神に義と認められる。マルチン・ルターの改革運動も、教会に信仰義認を取り戻すところに主眼があった。教会の絶ちもし、倒れもする大切な生命線です。
ところが、ヤコブは信仰義認の陰に潜む欺瞞を暴きます。「自分の宗教に熱心であると思っても、舌を制することをせず、自分の心を欺くならば、その人の宗教は空しいものです。みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まることなく自分を守ること、これこそ父なる神の前に清く汚れのない宗教です。」心の熱心さではなく、実際に信仰者として生きることの大切さに気づかせます。言うなれば、ヤコブは「信仰義認主義」を戒めた。確かに私たちは自分の良い行いではなく、キリストを信じることだけにで救われる。しかしだからといって、それを主義として掲げて、むなしい宗教に生きることほど不幸なことはないとヤコブは訴えます。
それでは鏡で自分の顔を眺めてうっとりしているのと同じだ、と言うのです。鏡の前から立ち去れば、自分の顔なんて忘れてしまう。聞くだけで行わないなら、それと同じように意味が無い、自己満足だ、と言います。厳しい言葉です。しかし、核心を突いていると認めないわけにいかない。ヤコブは私たちが行うべき神様の御言葉を「自由の律法」と呼びます。信仰は私たちを自由にする。ヤコブの手紙は、自由への招きの手紙なのです。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...