2022年2月25日金曜日

2022年2月25日の聖句

主はご自分の民に法を適用されるが、ご自分の僕たちに寛大であられる。(詩編135:14)
義に飢え渇くものは幸いです。その人たちは満ち足りるからです。(マタイ5:6)

義に飢え渇くもの、と言われています。義。正義の「義」です。義に飢え渇く。義を求めているのに不法がはびこり、不正が幅をきかせている。
私たちの生きているこの世界の現実はいかなるなる姿をしているのか。戦争が始まりました。私には今回始まった戦争について、どちらの陣営が正義なのかは分かりません。政治学的にはいろいろな議論ができるのでしょうし、立場によって見え方も全然違うはずです。ただ一つ確かなのは、戦争によって酷い目にあわせられるのは、弱い人々です。政治的な力など特に持っているわけではなく、今持っている生活の資も戦争が始まれば消し飛ぶでしょう。世界で起きている不法に呑み込まれてしまう。思えば、聖書はずっとそういう歴史の中で書かれてきました。この世界は不法に満ち、弱いものに優しくなく、不条理に満ちている。正しい生き方をしても幸せになるとは限らないし、反対に不法に満ちた人が繁栄を謳歌したりしています。聖書は、この世界がデタラメであることを深く知っています。
「義に飢え渇くものは幸いです。その人たちは満ち足りるからです。」この言葉は、この世界の不法の一番の犠牲者である方がおっしゃったことです。誰よりも深く義に飢え、渇いておられた方が、しかし議を求め、飢え渇く者の幸いを教えてくださったのです。義に飢え渇くものは、幸い。なぜなら、「その人たちは満ち足りるから」と主イエスは言われます。これは、主ご自身が義への飢え渇きを満たしてくださるという約束に他なりません。
この世界は不法に満ちていて、デタラメになってしまっている。しかし、神さまの御前に立たされたとき、一体誰が自分だけは別だと言えるのでしょうか。「主はご自分の民に法を適用される」。神さまの法を適用されたとき、一体どうしてそれでも自分が正義だと言えるでしょうか。どうして平気な顔をして他人を裁けるでしょうか。それなのに、神さまは私たちに対して当然受けさせるべき報いをお与えにならなかったのです。主は「ご自分の僕たちに寛大であられる」のです。それは、当然の報いを、誰よりも義に飢え渇いたお方、主イエス・キリストにお与えになったからです。
私たちは、神さまの御前に、愛と憐れみによって生かされています。神さまの義は、私を愛し、憐れむことによって貫徹された、と聖書は言うのです。

2024年4月16日の聖句

私の神である主は、私の闇を光となしてくださる。(詩編18:29) これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所から曙の光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの足を平和の道に導く。(ルカ1:78~79) 主なる神さまの憐れみの心によって。これが...