2022年4月21日木曜日

2022年4月21日の聖句

悪を憎み、善を愛し、町の門で公正を打ち立てよ。あるいは、万軍の神である主が、憐れんでくださることもあろう。(アモス5:15)
光の子として生きなさい。光は、善と義と真理以外のものをもたらすことはありません。(エフェソ5:8~9)

旧約聖書の方に「町の門」という言葉があります。古代のユダヤの社会では、町の門に長老たちが集まって、大切なことを決めていたそうです。裁判もそこで行われていた。現在で言えば行政や司法の場、ということになるのではないかと思います。町の門での営み、それは社会の営みです。一人で生きるのではなく、家族や気の合う仲間とだけ生きるのではなく、いろいろな人がいる社会を形成して生きる時に「悪を憎み、善を愛し、町の門で公正を打ち立てよ」と、主なる神さまは私たちに命じておられます。
難しいのは、それぞれの立場によって人の数ほどの善や悪があることです。現代はそのことをとても強く考えさせられる時代でもあると思います。いろいろなトラブルの場面でも、大きく考えれば戦争をしている国々にも、それぞれの正義があるに違いない。しかし「どっちもどっち」と言って相対化して、無責任に傍観していることもできないと思います。そういうときに、一体何を基準に善悪を判断したら良いのでしょう。
町の門での営みを、聖書は「公正を打ち立てよ」と命じています。公正さ。それは聖書の中で一貫して大切にされていることです。聖書は、社会がやもめや孤児、寄留の外国人を虐げることを決して許しません。当時の社会では、今では考えられないほどの弱者でした。あるいは、週に一度の安息日は、主人だけではなく奴隷も、家畜も休ませなくてはならない。むしろ、奴隷や家畜が休むということに安息日の一つの目的があったと言っても良いと思います。聖書は強い者が強いままに、当たり前に振る舞うことを良しとしません。公正ではないからです。神さまは貧しい人、弱い人、虐げられている人を重んじ、富む者と貧しい者とが公正に生きることを望んでおられます。その辺りに、善悪の一つの基準があるのではないでしょうか。
今朝の新約聖書は言っています。「光の子として生きなさい。光は、善と義と真理以外のものをもたらすことはありません。」この御言葉は、更に、もっともっとはっきりしています。光の子として生きる。光の子、それは神の子ということです。キリストの弟として、妹として生きるということです。そこには善と義と真理以外のものは生まれこないと言います。私も光の子にして頂いている。神さまはこのように小さな私にさえも公正に振る舞ってくださっている。キリストの愛という光の中に、私たちの今日一日も置かれているのです。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...