いと高き方、あなたを喜び、祝い、その名をほめ歌おう。(詩編9:3)
主にあっていつも喜びなさい。(フィリピ4:4)
いつも喜びなさい、と言っています。「いつも」というのは、すごい言葉です。いつも喜べるわけではないし、いつも喜ばしいことがあるわけでもありません。喜びとは遠く離れたようなことも私たちには多い。そんな私たちがいつも喜べるとしたら、その理由はただ一つです。「主にあって」と言うとおり、主イエス・キリストにある喜び。これはいつどんなときにも変わることがない。キリストこそ私たちの変わることのない喜びの源泉です。
夏に富士宮に旅行に行きました。宿泊先のすぐ側に、白糸の滝という大きな滝があります。たくさんの観光客がいます。勇壮な眺めです。そこから少し外れたところに、お鬢水(おびんみず)という小さな泉があります。源頼朝が美しい水面を鏡にして髻を整えたという逸話が残っている場所なのだそうです。寂れていて殆ど人が来ることのない場所で、静かに、しかし確実に水が湧き出ている。小さな泉です。私は主にある喜びというのは、そういうイメージではないかと思います。人目に付く派手な喜びとか、大きなうれしさとか、そういうことではない。誰の目にも得に触れることなく、しかし確実に湧き出る泉のような喜び。静かな、しかし確かな喜び。キリストという命の水の湧き出る泉を私たちは知っています。
「いと高き方、あなたを喜び、祝い、その名をほめ歌おう。」私たちはキリストにある喜びを抱いて、主なる神さまを礼拝します。キリストを祝い、喜びを献げます。私たちのこの小さな営みを、神がその永遠の御心を持って憶えていてくださいます。
主にあっていつも喜びなさい。(フィリピ4:4)
いつも喜びなさい、と言っています。「いつも」というのは、すごい言葉です。いつも喜べるわけではないし、いつも喜ばしいことがあるわけでもありません。喜びとは遠く離れたようなことも私たちには多い。そんな私たちがいつも喜べるとしたら、その理由はただ一つです。「主にあって」と言うとおり、主イエス・キリストにある喜び。これはいつどんなときにも変わることがない。キリストこそ私たちの変わることのない喜びの源泉です。
夏に富士宮に旅行に行きました。宿泊先のすぐ側に、白糸の滝という大きな滝があります。たくさんの観光客がいます。勇壮な眺めです。そこから少し外れたところに、お鬢水(おびんみず)という小さな泉があります。源頼朝が美しい水面を鏡にして髻を整えたという逸話が残っている場所なのだそうです。寂れていて殆ど人が来ることのない場所で、静かに、しかし確実に水が湧き出ている。小さな泉です。私は主にある喜びというのは、そういうイメージではないかと思います。人目に付く派手な喜びとか、大きなうれしさとか、そういうことではない。誰の目にも得に触れることなく、しかし確実に湧き出る泉のような喜び。静かな、しかし確かな喜び。キリストという命の水の湧き出る泉を私たちは知っています。
「いと高き方、あなたを喜び、祝い、その名をほめ歌おう。」私たちはキリストにある喜びを抱いて、主なる神さまを礼拝します。キリストを祝い、喜びを献げます。私たちのこの小さな営みを、神がその永遠の御心を持って憶えていてくださいます。