2024年11月4日月曜日

2024年11月2日の聖句

主は正しい人の行いと忠実さに応じて、それぞれに報いてくださいます。(サムエル上26:23)
(パウロの手紙)主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはなりません。主は、闇に隠された事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。その時には、神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。(1コリント4:5)

私たちの行いも心の思いも、主なる神さまの前で問われ、明らかにされ、裁かれます。世も私たちを問い、何事かを暴き、裁きにかけることもあるでしょう。しかし私たちは人の裁きを恐れるよりもなおのこと神を畏れ、神の御前にいることをこそ重大なことと考えます。
「主が来られるまでは、何事についても先走って裁いてはなりません。主は、闇に隠された事を明るみに出し、人の心の謀をも明らかにされます。その時には、神からそれぞれ誉れを受けるでしょう。」
パウロはこの主の裁きは「主が来られるとき」のことだと言います。主イエス・キリストが再び来てくださるとき。使徒信条も、主が再び来られて生きている者と死んでいるものと裁かれると告白しています。私たちは終わりの時、救いの完成の時の裁きを待ち望んでいる。
そう、私たちは終わりの時を待ち望んでいます。裁きを待ち望むというのはおかしな言葉のようにも思えます。私たちが神の御前に裁かれるとき、罪状を読み上げ出すときりがありません。わたしたちは神に対して一万タラントンの借りがあってしかも債務不履行です。裁きには耐えられない。しかし、私たちのすべての借財も罪の重荷も、キリストが引き受けてくださいました。だから、裁きの時は救いの時です。私たちのためのすべての罪状が破棄されるときです。私たちはキリストを待ち望み、キリストの救いを待ち望み、キリストにあって救われる約束の時として、神の御前に立つ日を待ち望んでいる。それがキリスト者の将来へのまなざしです。

2025年8月30日の聖句

主よ、あなたは私を回復させ、生かし続けてくださいました。(イザヤ38:16) 時に、プブリウスの父親が熱病と下痢で床に就いていたので、パウロはその人のところに行って祈り、手を置いて癒やした。(使徒28:8) 熱病や下痢を初めとして、あらゆる病に苦しむ仲間のために私たちは祈ります。...