2025年4月16日水曜日

2025年4月16日の聖句

人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消え失せ、生えていた所を知る者もなくなる。(しかし)主の慈しみは世々とこしえに。(詩編103:15~16、17)
この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。(1コリント15:53)

「人の生涯は草のよう。」その通りです。しかし悲しい言葉です。だれにでも必ず訪れる現実です。誰もが必ず死ぬ。どんなに咲き誇り、その命を謳歌したとしても。現実ですが、簡単な現実ではありません。「人の生涯は草のよう」というのは、きっと私たちよりも遙かに死という現実を直視していた人々の実感がこもった言葉なのだと思います。「風がその上に吹けば、消え失せ、生えていた所を知る者もなくなる。」
人の生涯は草のよう。「しかし」、と私たちは言うことができる。私も、私の愛する人も、草のようにすぐに枯れてしまう脆くて儚いものに過ぎない。しかし、主の慈しみはそうではない。主の慈しみのスケールは、私たちの命のスケールを超えている。主の慈しみは世から世へ、とこしえに続く。主の慈しみにこそ、私たちの望みがある。
聖書は、その私たちの望みを「復活」と言い表します。「この朽ちるものは朽ちないものを着、この死ぬべきものは死なないものを必ず着ることになるからです。」神が私たちを朽ちず死なない新しい体をもって装ってくださる。私たちは弱く儚く小さな者だけど、神は私たちを確かにしてくださる。主イエス・キリストが墓から復活させられたのと同じように、私たちにも訪れる復活の朝、キリストが私たちを起こしてくださいます。その日を望みつつ、今日の一日の営みをなしていきたいと願います。

2025年12月8日の聖句

あなたはあなたの神に立ち帰れ。慈しみと公正を重んじ、絶えずあなたの神を待ち望め。(ホセア12:7) (パウロの手紙)「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、すべて受け入れるに値します。私は、その罪人の頭です。しかし、私が憐れみを受けたのは、キリス...