主は高くおられ、低くされた者を顧みる。遠くから、高慢な者を見抜かれる。(詩編138:6)
(ある金持ちの言葉)「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。「愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。」(ルカ12:19~20)
主イエスの譬え話です。ある金持ちの畑が豊作だったので、この人は作物をしまうためにこれまでよりも大きな倉を建てることを計画して、独りごちました。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」主イエスは、この男は「愚か者」だとおっしゃっています。しかし、考えてみれば私たちの社会はこの男の考えたとおりに動いています。そもそも蓄えがないと私たちはたちまち困ってしまうでしょう。むしろ蓄えておかない方が愚かだ、と社会では考えられていると思います。そうだとしたら、主イエスはこの男の一体何が愚かだとおっしゃっているのでしょうか。
この話をなさる前に、主イエスはおっしゃっています。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」主イエスは、この男は貪欲だとおっしゃっています。そして、その貪欲によって自分の命を支えようと考えた。ここにこの男と私たちの問題があるのではないでしょうか。神が私たちの魂を取り上げるのに、財産の多寡は関わりがない。ちょっとふさわしくない表現ではありますが、「地獄の沙汰も金次第」ではないのです。
詩編は言っています。「主は高くおられ、低くされた者を顧みる。遠くから、高慢な者を見抜かれる。」私たちに必要なのは、造られたものとしてのへりくだりです。自分で自分の命をどうすることもできない者としての謙遜です。自分の持っているもの(それが財産であろうと努力であろうと、他の何であろうと)によって命を左右することができるという高慢な思い込みを捨てて、神の前にへりくだることが大切ではないでしょうか。私たちの神さまは、私たちの髪の毛一本でさえも憶えていてくださるほどに私たちの命に関心を持ち、ご自身が私たちのために心配してくださるお方なのです。
(ある金持ちの言葉)「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」しかし、神はその人に言われた。「愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる。お前が用意したものは、一体誰のものになるのか。」(ルカ12:19~20)
主イエスの譬え話です。ある金持ちの畑が豊作だったので、この人は作物をしまうためにこれまでよりも大きな倉を建てることを計画して、独りごちました。「魂よ、この先何年もの蓄えができたぞ。さあ安心して、食べて飲んで楽しめ。」主イエスは、この男は「愚か者」だとおっしゃっています。しかし、考えてみれば私たちの社会はこの男の考えたとおりに動いています。そもそも蓄えがないと私たちはたちまち困ってしまうでしょう。むしろ蓄えておかない方が愚かだ、と社会では考えられていると思います。そうだとしたら、主イエスはこの男の一体何が愚かだとおっしゃっているのでしょうか。
この話をなさる前に、主イエスはおっしゃっています。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」主イエスは、この男は貪欲だとおっしゃっています。そして、その貪欲によって自分の命を支えようと考えた。ここにこの男と私たちの問題があるのではないでしょうか。神が私たちの魂を取り上げるのに、財産の多寡は関わりがない。ちょっとふさわしくない表現ではありますが、「地獄の沙汰も金次第」ではないのです。
詩編は言っています。「主は高くおられ、低くされた者を顧みる。遠くから、高慢な者を見抜かれる。」私たちに必要なのは、造られたものとしてのへりくだりです。自分で自分の命をどうすることもできない者としての謙遜です。自分の持っているもの(それが財産であろうと努力であろうと、他の何であろうと)によって命を左右することができるという高慢な思い込みを捨てて、神の前にへりくだることが大切ではないでしょうか。私たちの神さまは、私たちの髪の毛一本でさえも憶えていてくださるほどに私たちの命に関心を持ち、ご自身が私たちのために心配してくださるお方なのです。