神よ、この耳で私たちは聞きました。先祖が私たちに語り伝えたことを。いにしえの日々にあなたのされた業について、先祖が私たちに語り伝えたことを。(詩編44:2)
誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集めます。(2テモテ4:3)
今日の新約聖書の御言葉は、聖書協会共同訳の翻訳をベースにしていますが、新しい日本語表現が使われています。「みみざわり」はもともとは「耳障り」という字で、耳にとっては障りとなる不快な言葉を意味しますが、この「耳触り」というのは新しい日本語ですね。「耳への感触」という字なので、必ずしも悪いことだけを指すのではないようです。ここでは「耳触りのよい話」という翻訳が充てられています。
日本語としてはとても新しい表現ですが、感覚的によく分かります。味で言えば甘い、誰でもすぐに飛びつきたくなるような言葉。甘言という表現もあります。そういう言葉は誰でも聞いていたい。そういう言葉にしか耳を傾けない時代が必ず来る、と聖書は言います。健全な教えはそれに比べればたいへん耳障りなことも多いですから、忌諱されてしまう。もしかしたら、今まさにそういう時代を迎えているのかもしれません。
しかし、私たちは例え耳障りでも、まことの神の言葉を慕い求めます。「神よ、この耳で私たちは聞きました。先祖が私たちに語り伝えたことを。いにしえの日々にあなたのされた業について、先祖が私たちに語り伝えたことを。」私たちを罪と死と悪の力から救いだしてくださるキリストの御言葉を、私たちは耳を傾けて聞く。そこにこそ私たちの命があり、救いがあると私たちは信じています。
誰も健全な教えを聞こうとしない時が来ます。その時、人々は耳触りのよい話を聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集めます。(2テモテ4:3)
今日の新約聖書の御言葉は、聖書協会共同訳の翻訳をベースにしていますが、新しい日本語表現が使われています。「みみざわり」はもともとは「耳障り」という字で、耳にとっては障りとなる不快な言葉を意味しますが、この「耳触り」というのは新しい日本語ですね。「耳への感触」という字なので、必ずしも悪いことだけを指すのではないようです。ここでは「耳触りのよい話」という翻訳が充てられています。
日本語としてはとても新しい表現ですが、感覚的によく分かります。味で言えば甘い、誰でもすぐに飛びつきたくなるような言葉。甘言という表現もあります。そういう言葉は誰でも聞いていたい。そういう言葉にしか耳を傾けない時代が必ず来る、と聖書は言います。健全な教えはそれに比べればたいへん耳障りなことも多いですから、忌諱されてしまう。もしかしたら、今まさにそういう時代を迎えているのかもしれません。
しかし、私たちは例え耳障りでも、まことの神の言葉を慕い求めます。「神よ、この耳で私たちは聞きました。先祖が私たちに語り伝えたことを。いにしえの日々にあなたのされた業について、先祖が私たちに語り伝えたことを。」私たちを罪と死と悪の力から救いだしてくださるキリストの御言葉を、私たちは耳を傾けて聞く。そこにこそ私たちの命があり、救いがあると私たちは信じています。