2025年10月3日金曜日

2025年10月3日の聖句

私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。
主の腕は、誰に示されただろうか。(イザヤ53:1)
マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:18)

今日の旧約の御言葉は、イザヤ書第53章が伝える「苦難の僕」の姿を描く言葉の一節です。「主の腕は、誰に示されただろうか」と言いながら「これを誰が信じただろうか」と言っているのを聞くと、フトすると、よほど力強くて奇跡的な、それこそ信じられないような凄い話、という印象を受けます。ところが苦難の僕は、それとは真逆の姿を見せています。「彼には見えるべき麗しさも輝きもなく、望ましい容姿もない」。それどころか「人々から顔を背けられるほど軽蔑され、私たちも彼を尊ばなかった」とまで言われます。この僕は病と痛みを負っており、しかもそれは私たちの病であり、私たちの痛みであったにもかかわらず、私たちは彼が「神に打たれて、苦しめられた」と思い込んでいた。しかし、そんな苦難の僕こそに、神は「多くの人を彼に分け与え」られる。この僕によって、私たちは救われる。私たちの救いのために力を振るい、誰が見ても「この人だ」と言われるのではない、醜く、傷つき、軽蔑され、排除され、殺される僕。この方に私たちの救いがかかっているなどと、「誰が信じただろうか」と預言者は言います。
今日の新約聖書の御言葉は、マグダラのマリアが復活のキリストと出会い、そのことを弟子たちに伝えたときのことです。「私は主を見ました」。この主イエス・キリストは、十字架にかけられたお方です。あの苦難の僕そのものでいらっしゃるお方です。その方が復活し、再びマグダラのマリアと出会い、他の弟子たちと出会ってくださった。
私たちはへりくだって、十字架の上で軽蔑され、人々に見捨てられ、痛み、苦しんだ方を神として信じたいと願います。決して当たり前のことではない。神の、私たちの思いを超えた不思議な御業を驚き、へりくだって受け入れ、信じましょう。

2025年10月3日の聖句

私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。 主の腕は、誰に示されただろうか。(イザヤ53:1) マグダラのマリアは弟子たちのところに行って、「私は主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:18) 今日の旧約の御言葉は、イザヤ書第53章が伝える「苦難の僕...